斎藤茂吉と永井ふさ子

斎藤茂吉と永井ふさ子
朝日新聞土曜版beより

松山市の真ん中にそびえる城の天守から、かすみがかかったような早春の瀬戸内海が見える。

 70年あまり前、親子ほどに年の離れた恋人同士が、微妙な距離を保ったまま、この光景を見ていた。男には妻がいる。別れを決意しながら、完全には別れきれないふたり。

 年老いてかなしき恋にしづみたる
 西方のひとの歌遺(のこ)りけり

 そう詠んだ男は、近代を代表する歌人斎藤茂吉。1937(昭和12)年の当時55歳で、東京の大病院の院長。妻輝子が男性関係の醜聞を起こし、長く別居状態にあった。

 女は弟子の永井ふさ子。27歳。3年前に東京で茂吉と出会い、歌の指導を受けるうちに深い関係になった。しかし、婿養子の茂吉は離婚に踏み切る気はない。関係もひた隠しにしていた。

 「窓際OL」シリーズなどで人気のエッセイスト、斎藤由香さんが先月出版した『猛女とよばれた淑女』(新潮社)は、破天荒とも言える生き方を貫いた祖母、斎藤輝子の評伝である。

 父の命で茂吉を婿にしたが、夫婦仲は最初から悪かった。別居の直接のきっかけになったのは、1933(昭和8)年、ダンス教師と有閑夫人や令嬢たちの遊興関係が警察ざたになり、新聞にも取り上げられた「ダンスホール事件」だった。

 これに関係した輝子に、茂吉は家を出るよう言い渡す。永井ふさ子を知るのはその翌年である。

輝子は茂吉の死後、その印税を用いての世界旅行が趣味となり、89歳で亡くなるまで南極やエベレストも含めて108カ国を旅した。由香さんは「今の世の中、うつ病になる人が多い。どうしたら輝子のように毅然(きぜん)として強く生きられるのか、知りたかった」と執筆の動機を語る。

 確かに輝子ほど好き勝手に生きられれば、悩みとは無縁かもしれない。一方で、戦中戦後の混乱期、度胸の良さと迅速かつ的確な判断で病院と茂吉一家の没落を防いだ様子も伝えられ、器の大きさを感じさせる。藤岡さんの目にも「茂吉より輝子さんの人生の方が面白い」と映っている。

 もし彼女が戦後に生まれていれば、起業か政治か社会運動か、何か大きな仕事をしたと想像したくなる。次男で作家の北杜夫さん(80)=由香さんの父=にそうたずねると、即座に「そんな才能はありません」と答えた。

戦時中、茂吉とふさ子の関係が終わってゆく経緯は、はっきりしない。確かなのは、終戦前の混乱の中で茂吉が輝子を呼び戻し、やがて病み衰えた最晩年の茂吉を、輝子が優しく介抱したことだ。茂吉の死後、輝子は夫の偉大さを語るようになった。これも、愛の形と呼ぶことができるだろうか。

 その後、忘れられた存在であったふさ子は、茂吉が「焼却を」と念を押していた手紙を公開したことで注目を受けた。同時に、茂吉を神聖視する人などから非難も浴びた。ふさ子は生涯、独身を通すことになる。

茂吉とふさ子が合作した歌が残る。長い戦後を生きたふさ子の、お守りになっていたと推定される。

 光放つ神に守られもろともに
 あはれひとつの息を息づく

 この愛を、一時のはかない夢とは誰も言えない。ふさ子にとって、生を燃焼させた確かな時間だった。

斎藤一族は多彩で面白いですよね。一度きちっと読みたいのですが。ふさ子さんが松山の繁華街を歩くと皆振り返ったそうですが、確かに美人ですね。
それにしても茂吉夫人がダンスホール事件に関わりがあったとは。私も物を知らない。確かこれには吉井勇の妻も関わっていましたよね。二・二六事件で刑死した中橋基明中尉*1もダンスが好きで、醜聞の舞台となったフロリダにも熱心に通っていました。