鰻と梅干

昭和初期の日本の歩みは錯誤の積み重ねである。一つ一つは小さくてもそれが重なり、やがて坂道を転がりだす。例えば支那駐屯軍の増強問題。これは関東軍の北支への容喙に対する牽制として為されたものだが、勿論そんなこと中国側が知るわけがない。またその兵力配置について参謀本部石原莞爾第一部長*1)は通州に置くことを望んだが、条約上京津鉄道から離れた場所には置けないという梅津美治郎陸軍次官*2の強い反対にあい、豊台に置くことになった。二十九軍と眼と鼻の先に置かれたこの一大隊が、盧溝橋事件を誘発する有力な原因の一つであることは論を待たないだろう。また併せて後に通州でおこった惨劇を思い合わせると、何ともいえない気持ちになる。国が滅びる時というのはこういうものだろうか。
南京は錯誤の集大成ともいえる。我が軍による蛮行はこれで終わったわけではないのだが、南京ほど虐殺の起こる条件が揃っていた事例はあまり無い。簡単に見てみると

  1. 中央部のグランドデザインの欠如
  2. 1に起因する兵站の不備
  3. 上海での大損害
  4. 併せて積み重なった邦人被害とその最たるものである通州事件
  5. 3、4に起因する兵隊たちの復讐心
  6. 一部兵隊(主に補充兵)のモラルの低さと世慣れた狡さ
  7. 従来からの支那人に対する蔑視観
  8. 対する支那人の抗戦意識(国家意識)の高さ
  9. 指揮官級人事の不備
  10. 憲兵の不足(ご指摘により追加)

ざっと思い浮かべただけでもこれぐらいある。
1について、参謀本部内でも南京攻略に反対の多田駿参謀次長*3と、最早已む無しという下村定第一部長*4の見解の不一致があった。私としては、当時誰もが思いつかなかったような対案を示してヤイヤイ言うつもりは無いが、当時でもちゃんと拡大を避ける考え方の人はいたのである。
3について、これを問題にする人があまりいないように思うが、上海での損害は、中国軍を相手にしては未曾有と言っても良い。だから止むを得ないとは私は言わない。だからここで止めておけばよかったとは言うが。
8もそうだ。実際に従軍した人々が口々にこの点を述べているのに、敢えて軽視する向きが無いか。有末精三は次のようなことを書いている。

軍の先輩としてお世話になった方々は尠くないが、思い出の第一人者は多田軍司令官である。私は陸軍大学校学生時代砲兵少佐として、私ら第三十六期生の専任兵学教官、三か年間戦術を教えられた。瓢々乎として禅味を帯び、枯淡、対支軍図上戦術として一万人の捕虜を得た情況で如何に処理すべきやの問題、答辞のため陣中要務令俘虜取扱いの原則で色々苦心していた学生達の答案を尻目に示された多田教官の原案は、何と「武器を召し上げた上全部釈放、生業に就かせる」といったことであった。これが将軍の支那軍観のエキスとでもいえただろうか。

しかし残念ながら、もうこういうある意味幸福な時代は終わっていた。我が軍にとって支那兵俘虜というのは、そうおいそれと解放できる存在ではなくなっていた。かと言ってこれを給養する力も残念ながら無かった。
9の人事について触れる。上海派遣軍司令官の松井石根*5は俗に支那通といわれる人物で、確かに彼が中国に深い愛着を持っていたことは否定し得ないが、このときは南京を落とし蒋介石を下野させるという考えを持っていたとみて差し支えないだろう。彼は意外に政治的な軍人で、少なくとも皇道派と呼ばれた人々とは対立的であった。隷下の第十六師団長中島今朝吾との折り合いの悪さは、中島が憲兵司令官の時代には既にあったようだ。中島はちょっと特異な性格の人物であるが、二人の対立の原因が何かははっきりとは分からない。補佐する参謀長の飯沼守*6は松井とは同郷である。石原と同期で実際彼を石原系の人物と見なす向きもあるようだが、どういう人物であったかはよく分からない。後に人事局長などを歴任する。彼も師団長を務めた第百十師団は、地元民に評判が良く、戦後すぐに送還されたといわれるが、或いは南京の経験が生きたのだろうか?参謀副長の上村利道*7は総じて評判の良い人物。終戦時は関東での決戦兵団第三十六軍司令官であった。作戦課長の西原一策は非常な秀才であったが、ポンポンやるので嫌われると阿南の評価にはある。後年、北部仏印進駐に際して「統帥乱れて信を中外に失う」という日本電報史上に残る電文を打つことになる。ちなみに柴大人として北京の人々に長く親しまれた柴五郎*8の女婿である。情報課長の長勇*9は、これまた奇矯という意味ではトップクラスの人で、エピソードには事欠かない。ただこういう人は罪を被せやすいところがあるので、注意は必要だろう。軍司令官と師団長の不仲は勿論だが、軍司令部内もあまり纏まりが感じられない。特に長のような人物を敢えて起用する必要があったか。
上海派遣軍の苦戦を見て編成された第十軍司令官柳川平助*10は、真崎・荒木の直系で二・二六事件で予備役に編入された人物である。彼はフォッシュ将軍を深く敬愛しており、その考え方が極端な統帥至上主義*11であることは、多くの人が証言している。彼は必ずしも事変の拡大を強く望んでいた訳ではないだろうが(膺懲はともかく)、上海を取って南京に進撃するのは彼にとって兵理上当然のことであり、そこに政治的見地からの停戦などという判断が入る余地は無い。そしてこの人と松井との仲は、まず険悪といって差支えが無いほど悪かった。いま丁度もう一つのブログ近衛読書中隊で宇都宮太郎の日記のレビューをやっているが、松井は宇都宮の弟子的存在であり、柳川は宇都宮と同郷で彼のサロンを形作った一人である。その二人が仲悪いというのも皮肉なものだ。
松井と柳川というどう考えても相性の悪い二人が起用されたことは、しかし決して恣意的なものではない。陸軍では毎年動員計画が作られ、それに併せて予備、後備の将校にまで戦時職務が布達される。この年の動員計画は方面軍司令部二、軍司令部十であり、方面軍司令官には阿部信行*12、軍司令官には朝香、東久邇両殿下と香月清司*13のほか、松井石根、柳川平助を召集して充当することとなっていた。香月は既に北支で軍司令官に起用されており、両殿下は後回しになるのが普通だろうから、残った二人の起用は順当ではないか。結局この巡り会わせの悪さも、それまでの蓄積の結果と言える。ちなみに阿部は、北支方面軍が編成されると聞き、当然自分が軍司令官と思っていたところ、寺内が起用されたことに腹を立て、陸軍省に怒鳴り込んだそうだ。
以上。ちなみに最近30万という非現実的な数字*14を積極的に否定する向きが、否定派を否定する人々の中にもありますね。否定派の付け入る余地を潰すというのは良い事だと思いますが、私個人としては、実は数字はどうでも良かったりします。私としては、これらの事件などで、日本軍は列強の中でも特別残虐であるというような方向へ話が持っていかれない限りに於いては、別に数字は構わないという立場です。こういうのを相対化による矮小化と言うのでしたっけ?まあ直接の被害者である中国人が言う分には仕方ないかなとも思いますが、欧米列強がその尻馬に乗るのだけは断じて許せないですね。
余談ですが、こういう話があるそうですね。
「ありえない」論法と否定論存続の背景 - Apeman’s diary

南京事件否定論者の間で最近ブレイクしつつあるのが、張作霖爆殺はスターリンの陰謀だ、という説です。

ほんまかいな、そうかいなという話です。出所は、私は未読ですが、毛沢東の暴露本でしょう?興味深いのは、こういう人たちは、張作霖爆殺は日本の汚点であると考え、これをコミンテルンの仕業にできれば、少しでも日本にとってプラスであると考えている点ですね。私には全く理解不能ですが。う〜ん、やっぱり愛が足りてないのとちゃいまっか?
ついでに、当人がやったと言っているのに、関係無い人間がやってないと言い張る図式で一つ思いついたことがあります。青年将校のリーダー格だった大岸頼好が皇国維新法案大綱というのをかつて書きました。戦後、皇道派の将軍に近かった橋本徹馬という人が本を出すとき、この法案を採録しましたが、やや社会主義的な色彩があったため、これは統制派の幕僚が書いたものであると言い張り、大岸の一番の親友であった末松太平元大尉が、いやそれは大岸の作品だといくら言っても、全く聞く耳を持たなかったそうです*15