昭和十年代の陸軍と政治・第3章

第3章 宇垣内閣の流産 ―「軍の総意」による「反対」
昭和12年の1月23日に広田内閣が総辞職し、宇垣一成大将に組閣の大命が下ります。そこから大命拝辞までの流れは、色々な本に載っていますし、何より本書も詳しいのでそちらを読んでいただくとして、ここでは個人個人にスポットを当てます。
香月清司中将については下記URL
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-210.html
小磯国昭については下記URL
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-245.htmlで触れているので、今回は省略します。

宇垣反対のムーブメントの中心にいたのが石原莞爾であることは衆目の一致するところです。当時彼は参謀本部の第二課長でしたが、その権勢は下手な大臣をしのぐくらいのものがありました。「魔力があった」と表現する人もいます。また陸軍省の兵務課長田中新一や軍務局課員片倉衷も石原に追随していました。彼らの反対理由は、表向きは三月事件でしたが、実際はかつての軍縮に現されるような宇垣の豪腕を嫌がってのものだと言われています。この頃石原は独自の五ヵ年計画を腹蔵しており、それにはうるさ型の宇垣では都合が悪かったのでしょう。

軍務局長は磯谷廉介でしたが、彼も格別石原たちの動きを止めるようなことはしませんでした。この人の本心は良く分りません。憲兵司令官の中島今朝吾は派手に動きますが、この人に関しては別に書くときが来ると思うので、今回は省略です。

さて本題は下から突き上げられる立場にあった人々です。まず三次長。

教育総監部本部長の中村孝太郎は、陸軍が形式的に出した陸相候補の一人でしたが、正直彼がどういう考えであったのかは、全くわかりません。経歴的には宇垣の部下だったこともあり、当然知った仲ではあったでしょう。

参謀次長の西尾寿造は若い頃から非常な能吏として知られ、彼が見た文書は、宇垣も盲判を押したと言われています。つまりそれだけの信頼関係があったということです。彼は石原の動きを追認したように見えますが、本心がどうであったのかは分りません。

陸軍次官の梅津美治郎は、上記二人よりさらに宇垣と縁の深い人物でした。私生活では仲人もしてもらっています。梅津はその性格から言っても、石原たちの動きに不快感を持っていた節があります。しかしこのときはまだ、何も言いませんし動きません。明哲保身の人として、宇垣も不快感を日記に綴っています。

三次長の上の三長官。

陸軍大臣寺内寿一は、かつて予備役入りのところを、宇垣にすがって助けてもらったことがあります。宇垣が思うほど、当人がそのことを恩に感じているかは分りませんが、彼個人が宇垣に悪意を持っていないことは確かです。某筋から、「そろそろ宇垣は(首相に)どうだろうか」と聞かれて、「もうそろそろいい時分でしょう」と答えています。しかし自他共に認めるロボットである彼は、部下に言われるままに宇垣を訪れ、大命拝辞の勧告までしています。

参謀総長閑院宮殿下でした。殿下は基本的にお飾りで、普段は次長が職務を代行することが多いのですが、このときの三長官会議には、殿下直々に出席されておられます。これは殿下の権威を利用しようとする石原の差し金であったと言っている人がいるようです。殿下の三長官会議出席を後で聞いた別当稲垣三郎中将は、

同宮邸に奉仕すること十数年の永きにわたりながら、最も大切の時機に、同邸におらざりしために、飛んだ事態をかもしたり

と残念がったとか。これを見ると、稲垣中将は宇垣内閣に賛成であったととれますね。この話は私は本書で初めて知りました。またこの殿下の動き(宇垣排撃加担)に抗議して、第一師団に閑院宮殿下の「死亡通知葉書」を投げ込んで逮捕された新聞記者もいたそうです。

最後に問題の教育総監杉山元。杉山は宇垣の下で軍事課長、軍務局長、陸軍次官を務め、彼との縁の深さでは、当時の陸軍で右に出るものはいないといっても良いでしょう。宇垣が大命を拝し、宮中から四谷の自宅に戻ったのは25日の午前3時前でした。出迎える人の中には和服を着た杉山大将の姿もありました。勿論彼はその時、大命拝辞についてなど何も言いません。それを見た人々が、杉山は大臣をやるつもりだなと思ったとしても、無理は無いでしょう。よもやこの先生が、翌26日に近衛師団長の香月中将(杉山中村に次ぐ第三の候補)を伴って記者会見を開き、「自分は絶対に宇垣内閣に入閣しない」言い放ち、更にその足で宇垣を尋ねて大命拝辞を勧告するなど、神ならぬ身では分るはずも有りません。26日、大命拝辞を勧告しに組閣本部の宇垣を尋ねた杉山は、逆に宇垣に言いこめられ、(´・ω・`)として帰ります。そもそも彼がどういうつもりで、私服で宇垣を出迎えたのか分りませんが、こういうことをしているから、「便所のドア」(どっちにでも開くの意)などと呼ばれるのです。宇垣としても泣くに泣けない心境だったでしょう。

【感想】
著者は、宇垣反対は陸軍の総意であり、それ故に例え軍部大臣現役武官制が復活していなかったとしても、陸軍大臣を求めるのは難しかったであろうとしています。この点は私も同意見です。タイミング的に、現役武官制復活の直後に起こっただけに、惑わされやすいですが。しかし宇垣は後備の大将です。現役武官制が無ければ、法制上は彼自身が陸軍大臣を兼摂することが可能でした。勿論このような状況で、彼が陸軍大臣になったとして、何が出来たかというのはあります。しかし何か出来たかもしれません。そういう意味で、私はある程度、軍部大臣現役武官制の威力を認めるのです。

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