小笠原兵団司令部の人々

父親たちの星条旗』公開に寄せて

第109師団は昭和19年5月に父島要塞守備隊を基幹に編成された師団で、2個旅団から成り、それぞれの旅団は6個の独立歩兵大隊から成っていた。歩兵大隊の大隊長は60前後のロートルが多かったらしい。小笠原兵団とはこの第109師団に、歩兵第145聯隊や戦車第26聯隊などの諸部隊がくっついたものをいう。ちなみに支那事変初期に存在した第109師団とは別物である。

師団長栗林忠道は長野県出身で長野中学から陸士に進んだ。陸士は26期、兵科は騎兵、卒業席次は125番と平凡であったが、その後陸大に進み(35期)、これを次席で卒業して恩賜の軍刀を賜った。ちなみに首席は陸軍開闢以来の秀才といわれた藤室良輔。その後米国、カナダに勤務して所謂知米派となる。海外駐在時代はしきりに子供たちに絵手紙を送っていた。第23軍参謀長として、大東亜戦争の緒戦において香港を攻略。その後近衛の留守師団長となったが、部下(幹部候補生らしい)が火事を出した(宮城か?)ために、東部軍司令部附に左遷され、間もなく第109師団長に補された。同期のトップから比べればやや遅れたが、それでも栄転には違いない。しかし本人はこの人事に非常に不満であった。貧乏籤との思いが強かったのか。確かに彼が辞めさせられた僅か3ヶ月後には、近衛第2師団の留守師団は近衛第3師団に改編された。そのままなら東京で近衛師団長だったはずだ。

堀江芳孝少佐によれば、栗林中将は非常な陸大至上主義者であり、無天や専科を雑魚扱いしていたそうだ。ちなみにこの観察をなしている堀江少佐は陸大を卒業している(陸大については拙サイトを参考にして頂きたい)。兵団司令部は堀江少佐を除けば皆無天であった。そのため兵団長と参謀たちの関係はあまり良好とは言えなかったようだ。

陸大至上主義者といえば、栗林と同期の花谷正を思い出す。彼もまた無天を非常に馬鹿にしていた。馬鹿にするだけならいいが、花谷は更にぶん殴った。下は兵卒から上は大佐に至るまでであるから恐れ入る。残念なことに昨今いじめを原因とした自殺が続いているが、第55師団でも兵器部長を筆頭に何人かの自殺者が出ている。いずれも花谷の虐待が遠因である。死なないまでも頭がおかしくなって後送された軍医もいる。しかしもちろん従順に殴られる人間ばかりではなかった。昭和20年2月、歩兵第121聯隊長であった長澤貫一大佐は第55歩兵団長に任命され、後ろ髪を惹かれる思いで、部下と離れ師団司令部に出頭した。長澤は花谷より1期先輩の25期であり、幼年学校も大阪で、花谷の先輩にあたった。しかし無天のため、出世は花谷より遅れていた。花谷はいつもの調子で、
「なんだ貴様は蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか」
「平時なら、貴様のような低脳は閣下になるような人間じゃないぞ」
とやった。ところが長澤はこれを聞いて黙っては居なかった。
「私はいかにも無天だ。しかし歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何をいうか。貴様は大阪幼年学校では、おれの後輩じゃないか」
これを聞いた花谷はビール瓶を手に長澤に殴りかかったが、長澤はこれをかわして軍刀に手をかけた。副官は慌てて割って入り、竹薮の中に筵を敷いて二人を座らせ、論戦で対決させた。二人は睨み合っていたが、少しして花谷がいった。
「おれが悪かった。あやまる」
この話は高木俊朗の『戦死』よりの引用だが、この長澤将軍の態度というのは、いじめに対する一つの戦術ではないだろうか。いじめる人間というのは大概弱い。ところでこの第55師団にしても、インパール作戦を強行した第15軍にしても、その作戦も陰惨だが、司令部の空気もまた陰惨であった。これはもちろん長の性質によるところも大きいが、参謀長の無能無気力無責任のせいでもある。実際第55師団も、河村弁治大佐から俊秀でなる小尾哲三大佐に参謀長が替わって、大分ましになったそうだ。自分に矛先が向かってくるのを恐れておべんちゃらばかりだった河村と違って、小尾は花谷に向かって
「閣下、なぐってはいけませんぞ。師団長がおこったら部下がいじけますぞ」
と遠慮なく直諫したという。

さて話を小笠原兵団に戻すと、兵団の初代参謀長は堀静一大佐であった。大佐は陸大専科を出ており、歩兵科であり歩兵聯隊長も務めているが、その前は鉄道関係に居たらしい。長い髭をたくわえた温厚な人物で、よく人の話を聞いてメモを取るような真面目な人であった。栗林中将とも最初は親しかったらしい。しかし何が原因かは分からないが、栗林中将は堀大佐を非常に嫌うようになった。ある日の朝礼などでは、中将は大佐に向かって、ひげでは戦争はできないと凄い勢いで面罵したという。その場に居た堀江少佐は居たたまれず、そっと場を離れた。50も過ぎてひげがどうのとは、堀大佐も確かにうんざりしただろう。逆に言うとそれほどまでに栗林中将の大佐に対する感情は悪化していたのだろう。西川参謀、吉田参謀も陸大専科を出ていたが、やはり中将に軽んじられることに不満を抱いていたようだ。しかし西川参謀などは、戦術論に関しても臆することなく意見を述べていたようだ。

つづく。。。

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