部隊長たち

第109師団は2個旅団から成っていたわけだが、そのうち第1混成旅団は父島に位置した。硫黄島に配置されたのは混成第2旅団。初代旅団長の大須賀応少将は北海道出身の陸士27期、兵科は砲兵であった。硫黄島の将校の中では珍しく陸大も卒業している(39期)。父島要塞司令官から新編の混成旅団長となった。堀大佐、砲兵隊長の街道大佐と親しく、堀江少佐は二度旅団司令部を訪れたが、二度ともその三人がお茶を飲んでいたという。

厚地大佐は摺鉢山の地区隊長として戦った。鹿児島出身の負けじ魂の強い人だったそうだ。

硫黄島唯一の歩兵聯隊、鹿児島第145聯隊を率いていたのは、やはり鹿児島出身の池田増雄大佐であった。大佐は陸士27期、もちろん無天であった。

戦車第26聯隊長の西竹一中佐もこれまた偶然にも本籍鹿児島であった。外交官であった父が授かった男爵を襲爵。ロサンゼルス五輪の馬術競技において金メダルを獲得したスターであった。非常なプレーボーイでアメリカにも知人は多かった。


機動力の使えない硫黄島で死ぬことを残念がって、堀江少佐には何とか転属させてもらえないかというようなことを言っていたらしい。しかしその後一旦東京に帰り、戦車をかき集めると再び硫黄島に戻り、そして死んだ。伝説を残して。


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