軍参謀長の手記

友近美晴は広幼出身(首席で卒)、陸士32期、陸大は41期。まずは世代のトップグループに属していたといってよい。第14軍参謀副長から、新設された第35軍参謀長に就任。一時期、参謀副長となるが(参謀長として和知鷹二が来たため)、また参謀長に返り咲く。この本は敗戦直後に書かれたが、責任を師団以下になすりつけ随分勝手なことを書くとの批判もある。
第1師団については、期待はずれの1師団と評し、片岡董中将に関しても、騎兵らしからぬ消極的な戦闘指導と酷評している。しかし米軍はむしろ第1師団の戦いぶりを評価しており、友近少将のこの1D評は不適当であろう。個人的な感情を持ち込んだものか?
第100師団に関しては、百鬼夜行の100師団と評し、特に師団長原田次郎中将を我利亡者と称し、戦闘指導は積極的も、食糧問題や軍政に関してからっきし無関心で、自分は米と鶏ばかり食っていたと酷評を加えている。
第102師団に関しては、参謀長で持つ102師団と称し、専科出身の和田参謀長を、戦術眼高く、事務処理適切と評価している。逆に、師団長の福栄真平中将に関しては、私生活に関心深く、食と住になかなかやかましく、指揮冷厳にして卑俗な人柄で、人望薄く、一死赴難の気概なく「我々は何時帰れるんだい」等の愚問を発したなどと手厳しい。それもそのはず、この福栄中将はレイテ決戦の最中に、軍の命令も待たず、部下を置き去りにして、セブ島に逃げ帰るというとんでもない軍紀違反をやらかした人物なのだ。友近は特に相当の紙幅をこの福栄中将の逃亡事件に割いている。これには温厚な鈴木宗作軍司令官もかんかんであったという。どうにか命永らえた福栄中将もしかし戦後、BC級戦犯として銃殺された。

熊幼の方はやはりちょっとばかしはずれだったようだ。柳勇大佐による武藤章の面白話が載っていたが、残念ながら殆どは「武藤章回想録」にて引用されており、既知の内容であった。