人は石垣

南方攻略の三軍(25A、14A、16A)を見ていると、人間関係の悪さと戦争犯罪や不祥事は比例関係にあるということが分る。

オランダは今村岡崎に死刑を求刑したが、結局二人とも無罪となった。第2師団長だった丸山政男も無罪、東海林俊成も死刑を求刑されていたが最後は減刑され、無事復員した。これらはひとえに、大本営から何を言われようが「占領地統治要綱の通りにやっている」の一言で撥ね付けた今村と、其の意をよく汲んだ部下の賜物だろう。

第14軍は、バターンのデスマーチ本間と野戦輸送司令官の2人が処刑された。これに関しては、マニラかバターンかという戦略的な問題がまずあり、責任の殆どは大本営にあるが、そこで独断、バターンへ逃げる米軍を急追できなかった本間及びその幕僚の弱さも指摘できる。今村と本間は同期の親友で、あまり軍人軍人していないところもよく似ているが、こういう局面での強さに差があるように思う。また第14軍の司令部は物理的にマニラとバターンに分断されており、その辺も良くなかった。大本営参謀として乗り込んできた辻政信に好き放題やられたのも、それだけ付け入る隙があったからだろう。ちなみにサントスへの処刑命令に関して、戦後、参謀長だった和知と参謀副長だった林義秀が、責任の擦り付け合いをしているが、林は辻と台湾軍研究部以来の仲だけに、彼のほうがやや分が悪い。この件は神保中佐の機転で事なきを得たが、大本営は温厚な本間の軍政が気に入らず、第16軍に対したのと同様に文句を言っている。軍政担当だった林は、相当ねじをまかれたようだ。しかしそこで、幕僚統帥が行われるかどうかも、第16軍との違いだ。第141聯隊長だった今井武夫は、「捕虜を全員射殺しろ」という出所の怪しい命令(辻からのものらしい)を受け、驚いて逆に捕虜を全員釈放してしまった。また辻には、自動車での移動中、捕虜の隊列と行き会うと、拳銃で銃撃を浴びせたという凄い話もある。

第25軍には、先に触れたパリットスロン事件のような戦闘中の捕虜殺害からシンガポールでの華僑虐殺までいろいろ有る。軍司令官の山下は他で処刑され、参謀長だった鈴木宗作は戦死、辻は逃亡、朝枝ソ連ということで、結局河村参郎他1名の処刑で済んだが、やはりそれでは終われない問題を残した。25軍ほど人間関係がごたごたしているところも珍しい。台風の目は勿論辻で、参謀副長だった馬奈木敬信によれば辻が一目置いていたのは軍司令官だけで、鈴木参謀長に対してこれを面罵することもあったという。ただ先に触れた近衛師団のように、人間関係の悪さは辻絡みだけではない。そもそも軍司令官と参謀長の間からして、やや隙間があったという話だ。しかし2人がそれぞれ第14方面軍司令官、第35軍司令官だった頃を見ると、2人とも私情を仕事に持ち込むようなことは一切していない。

それでは三軍隷下の師団長、参謀長のその後を見てみよう。

  • 近衛師団
    師団長 西村琢磨
    →予備役→司政官
    参謀長 今井亀治郎
    →歩236聯隊長→漢口軍事顧問→関東軍

  • 第5師団
    師団長 松井太久郎
    →南京最高軍事顧問→支那派遣軍総参謀長→第13軍司令官
    参謀長 河越重定
    総力戦研究所員→第5軍参謀長

  • 第18師団
    師団長 牟田口廉也
    →第15軍司令官→予備役→予科士官学校
    参謀長 武田 寿
    →第53歩兵団長→第1野戦根拠地隊司令官→第352師団長

  • 第16師団
    師団長 森岡 皐
    →予備役→華北綜合調査所長
    参謀長 渡辺三郎
    →船舶工兵第4聯隊長→第3船輸スマトラ支部長→第3船舶輸送司令官

  • 第48師団
    師団長 土橋勇逸
    仏印駐屯軍司令官→第38軍司令官
    参謀長 川越守二
    東部軍附→第1船輸大阪支部

  • 第2師団
    師団長 丸山政男
    →参本附→予備役
    参謀長 大木良枝
    関東軍附→南方燃料廠附→スマトラ燃料工廠長

  • 第38師団
    師団長 佐野忠義
    →防衛総参謀長→参本附→第34軍司令官
    参謀長 阿部芳光
    →歩校教官→内地鉄道参謀長→広島地区鉄道司令官
まず丸山中将の予備役入りはガダルカナルの結果だからこれは例外。それ以外で即予備役入りは近衛の西村と16の森岡森岡はバターン・コレヒドールでの苦戦を責められてのことだろう。第14軍では軍司令官の本間、参謀長の前田正美も予備役にされた。ちなみに森岡中将に関しては、辻から出た捕虜殺害命令を相手にしなかったという話があることを一応書いておく。そうやって見るとやはり近衛師団の西村と今井の冷遇が目を引く。上級司令部との折り合いの悪さ、とくに声の大きい辻政信との諍いが影響したか。この2人はお互い仲が悪かったそうだが、同時に両者とも、辻と険悪な仲であった。

最後に佐々木春隆『華中作戦』から今井に対する人物評を摘要するが、さすが陸大教官をしていただけに、その戦術は華麗で、佐々木大尉もすっかり魅せられたという。ところが戦術のイロハを弁えずに無理押ししてくる支那軍を前にすると、段々逆上しだし、「支那軍は戦術を知らん」などという泣き言まで飛び出した。その後妻の病死という悲報を受けるとすっかり意気消沈し、カイゼル髭を落として念仏ばかり唱えるようになり、そのまま更迭された。戦後はシベリアで病死したという。「英敏の代名詞」のような人であったが、頭が良すぎて戦場には不向きであったのではないかと、佐々木氏は同情している。