森林生態学、「里山」を提唱 四手井綱英さん死去

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里山」という言葉の生みの親で、日本の森生態学の草分けだった京都大名誉教授で京都府立大学長も務めた四手井綱英(しでい・つなひで)さんが26日、肺炎のため死去した。97歳だった。葬儀は近親者だけで営む。喪主は妻淑子(よしこ)さん。

 京都市出身。幼いころから山に親しみ、京大農学部林学科を卒業後、秋田営林局へ。1954年、43歳で母校・京大の教授になった。「生態学の助けを借りなければ、造林に関する基礎的な研究はできない」と教室の専門科目名を「造林学」から「森林生態学」に変更した。

 1960年代に、薪を採取するなど農山村の人々の生活を支える山を「里山」と呼び、その意義と保全を訴えた。75年に京大を退官したあと、日本モンキーセンター所長を経て、80年から6年間、京都府立大学長を務めた。

 北海道から沖縄まで全国の森林を歩いて調査し、科学的な森林研究の基礎を築いた。屋久島(鹿児島)や白神山地(青森・秋田)など多くの自然保護地域や天然記念物の指定や保護に貢献。和歌山県新宮市の「浮島の森」や大阪と和歌山の境にある葛城山系のブナ林保全でも精力的に活動し、98年に南方熊楠賞を受賞した。

 全国の自然保護運動の知恵袋的な存在。「日本の森林」「言い残したい森の話」など著書も多い。京大学士山岳会などを通じて故今西錦司氏(人類学)や故桑原武夫氏(仏文学)、梅棹忠夫氏(民族学)らと親交があった。

他に西堀栄三郎氏も。
四手井氏は名前を見たらわかると思うが、四手井綱正中将*1の弟に当たる。四手井中将はチャンドラ・ボースと共に台湾の飛行場で事故死した人物。

森の人 四手井綱英の九十年

森の人 四手井綱英の九十年

入隊してみると明治四十四年生まれの私は班で最年長、そしたら古参の上等兵がどういうわけか四手井はいじめない、と言明した。班長自転車屋のオヤジで、一日の報告書ですね、日報を書くのが面倒くさいというので、私が毎晩かわりに書いてやった。よろこんでね、私は点呼のあとは日報を書くだけでのんびりしていました。大隊長、連隊長くらいは私の軍人になった兄と同期ですから、まあ待遇は悪くなかったですね。
 上官がよく、お前はやせてるね、というから、兵隊向きじゃないから帰してください、私には娑婆に仕事がうんとある、大砲をいじらせるより帰した方がお国の役に立ちますよ、といったんです。が、彼にも帰す権限はないんですな。そのうち、大東亜戦争が始まり、私はいやだというのにむりやり予備将校の試験を受けさせられ、将校になってしまった。
 京都の師団はフィリピンヘ行くことになって、このときの連隊長はあとで北方方面軍の参謀長になった人ですが、なかなかものわかりがよかった。部隊編成前に全将校に、前線へ行きたいか行きたくないかアンケートをとった。これは自分が見るだけだからみなホンネを書いてよろしいといったんですが、あとで私をよんで、行きたくないと書いたのは君だけだ。みな行きたいはずはないのに、ナゼ嘘を書くのだろうといぶかしがってね。おかけで私は一人留守隊に残され、そのときは外地に出ずにすんだんですけど、そこには訓練不十分の馬がいっぱいいてね、農耕馬ですから、それを少しの留守番部隊で毎曰くたくたになるまで、調教したもんです。

北方方面軍参謀長というのは、恐らく誤植か校正ミスだろう。京都の砲兵連隊長で北方軍の参謀長になったひとはいない。しかし北方面軍参謀長ならいる。高橋坦(27期)。戦後は梅津何応欽協定の関係者ということで、無期の判決を受けた。

類人猿くらいになると嫉妬心もありましてね。チンパンジーの雌をかわいがって雄にかみつかれたことがありますよ。それからオランウータンが針金の先で飴をひきよせようとしていた。あるときうまくいかないんで、あきらめて針金の先で飴をこすってその針金をなめてるんですね。それをみんなで見ていたら、となりの檻のゴリラが怒りました。それはやきもちを焼いたとしか思えない。自分も見てくれって。