<座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(3)

<座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(2) - There is a light that never goes out.の続き

情報分析の大失態

秦 第六軍が編成されたあと、八月二十日からソ連軍の大攻勢が始まりますね。これに対する準備がぜんぜんないのに、日本軍のほうは四日目に攻勢に移ります。このあたり、インテリジェンス(情報・諜報)が、まずかったと思われるんですが……。七月三日の時も、攻勢計画が洩れていたという話がありますね。
クックス モンゴル陸軍の公式戦史の中に飛行機に乗っていた日本軍の高級参謀将校が捕われて、そのブリーフケースの中から日本の攻勢計画の書類を入手した、という記述があります。
須見 その高級参謀というのは、墜落して死んだ島貫忠正第二飛行集団参謀じゃないですか。
秦 その可能性はありますね。
須見 八月二十四日の日本軍の攻勢移転ですが、あれは私に言わせればめちゃくちゃですよ。
秦 ソ連が大攻勢をかけてきているというのに、あんなに分からないもんですかね。
クックスさん、日本軍のインテリジェンスについてはどう見ておいでですか。
クックス 情報の収集と分析の二つの面に分けると、収集のほうは比較的良かったと思うし、またよく働いていたと思います。しかし分析のほうが間違っていた。これは非常にまずかった。特に関東軍は、八月にはソ連軍の攻勢よりも越冬準備のことを考えていたのではないでしようか。
須見 八月の二日、三日あたりから、ソ連軍は威力偵察をやっているのですよ。
扇 その程度のものを八月攻勢と思っていたんです。そして陣地を作るのも、冬営準備のほうに力が入っていました。つまり居住施設の掩蔽壕を地下に大きく作るほうに、銃眼陣地を作るよりも重点がかかっていたのではないかという気がしますね。現実に東大を出た工兵上等兵の某氏がそう言っています。
須見 鉄条網をぜんぜん作っていませんね。材料がこないんです。

戦後の悲劇をめぐって

秦 扇さんが二十三師団の参謀に着任されたのは……。
扇 九月の五日です。
秦 事件が終りかけたころですね。当時の空気はどうでしたか。
扇 ほっとしたという気持ちに、たくさんの人を死なせたという陰惨な気持ちがまじって意気消沈していました。師団長もしょげてましたよ。
秦 場所は将軍廟ですか。
扇 将軍廟の東部に集結した時です。
秦 師団とは言っても、師団の形をなしてなかったんでしょう。
扇 師団の価値はありません。実質は一個連隊ですね。
秦 その時は、ソ連が追撃してこないとはっきりしていたのですか。
扇 はっきりしていたと思います。というのはソ連が拡張政策でノモンハン事件を始めたんじゃないという観測があったからです。その証拠に戦を終ったらすぐポーランドに兵を送ってますもの。
クックス いままでノモンハン戦史ではほとんど誰も言及してないんですが、九月に入ってから、特にハンダガヤ周辺で、歩兵第十六連隊(長・宮崎繁三郎大佐)などがかなり激しい戦闘をしています。見方によっては、新しい戦線が南側に出来たともとれるわけです。ソ連側が南から出て行く、日本軍にしても南側からもう一回攻撃を再開する、そういう可能性があったように見えたと思うんですが、扇さんはどう見ておられましたか。
扇 私はソ連が戦線をこれ以上拡大すると思いませんでしたね。
須見 あれは、ソ連の測量がいいかげんではっきりしないところを、いまのうちに取っておけ、ということじゃないですか。
扇 そうだと思います。そうなると、稜線の高いところが満州国側に入るんですよ。北川さんの書いたものにも、南のほうでは得したとあります。
クックス 翌年、国境確定交渉の時に、宮崎連隊が界標を置いたところがそのまま認められたということですね。
秦 最後にノモンハン戦の悲劇的な側面に触れていただきたいと思います。多数の指揮官が責任をとって、自決したり、させられたりしましたが、それとは別に大きな問題としては捕虜の問題があります。捕虜交換に洩れ、そのままソ連から戻ってこない日本軍捕虜が少くないといわれています。
扇 私は捕虜については詳しく知りません。将校は自決させ、下士官兵は助けてやったとか書いてある本もありますが。
秦 二十三師団の兵隊さんで、捕虜になった人はかなりいると思うんですが、師団で数えたことはないんですか。
扇 これは行方不明で帰って来ないから、向こうに行ったんだろうという程度です。的確に把んでおりませんね。捕虜交換で戻ってきても師団には帰ってこなかったんです。
須見 行方不明二千という数字が出ておりますから、そのぐらいの数の捕虜はいたかもしれません。
兵隊さんの手記を見ますとね、爆風で吹っとばされて、意識を失ってしまう人もいます。意識を失って、気がつくとたいがい夜です。目が覚めて戦友の死体がまだそこにあれば、仲間の死体を持って下がってない以上、わが中隊は前方にいるという判断をするんですね。それで這うようにして行ったら、中隊がいた。「あ、お前生きてたか。よかった」と言って収容されたという手記があります。いたからよかったけれども、いなかったらどうなりますか。負傷したこのような勇敢な兵隊が前進したために捕まってしまう。僕は可哀そうだと思いますねえ。
クックス 捕虜はタブーとするという考え方は、ノモンハン事件を契機に緩やかになったのか、逆に厳しくなったのか、そのへんはどうですか。
扇 相変わらずだと思いますね。大東亜戦争中も思想は変わってないと思います。陸軍が思想を改めない限り、捕虜問題とか、退却した隊長の責任問題とか、永遠に続くだろうと思いました。
クックス 変えようという考え方も出なかったのですね。なぜジュネーブ協定に批准しなかったのでしょう。
須見 後進国なんですよ。でも、日露戦争の時はそうでなかった。
秦 ソ連でも捕虜になるのはタブーだったらしいんですが。
須見 ソ連軍の中でも共産党員のエリートは捕まりそうになると自決したみたいですね。
クックス 関東軍には二種類の捕虜がいたわけですね。一つはノモンハンの捕虜、もう一つは一九四五年天皇の命令によっていわば名誉ある降伏をした捕虜。そして片方のノモンハンの捕虜はいつまで経っても浮かばれないという現象があるんじゃないでしょうか。
ベトナム戦争での捕虜をアメリカ人は歓呼して迎え、その時にベストを尽くしたか尽くさなかったかということだけが問題になりました。しかし日本では、生きてるか死を選んだかだけが問題になった。そのへんの違いがありそうですね。
秦 井置中佐の自決問題については、扇さんが『歴史と人物』に二度にわたってお書きになり、今度のご本でも再論されていますね。
扇 井置中佐がフイ高地を退却した決心は、至当だということを申し上げたいんです。人によっては妥当じゃないと言う人もいますが、私は尽くすべきを尽くした人だと解釈しています。兵器も、弾も、食糧も、水もない。すべてないんです。あとはソ連軍の標的になって死ぬだけですよ。こんな戦なんてあるもんじゃない。
クックス 井置部隊については、ソ連軍指揮官のジューコフ元帥が非常に誉めています。敵将に誉められた指揮官を日本軍が処罰したという奇妙な形になってしまったわけですよ。
秦 鷹司信煕重砲連隊長なんかは礼遇停止になっています。
須見 男爵ですから。
扇 天皇陛下が、鷹司中佐がクーリーに変装して下がったというのは事実かと聞かれたという話を聞いた記憶があります。
クックス 『昭和史の天皇』では、鷹司さんがインタビューにお答えになって、「書類を焼け」と言ったのを「車両を焼け」と間違えられて、身動きできなくなったと証言していました。これはあり得ることでしょうか。
須見 重砲が敵の戦車と直にぶつかるなんて想像もつかないことで、混乱の極に達していたのですから、そのぐらいの間違いは起きても不思議ではありません。
秦 扇さん、事件が終る直前、二十三師団の将兵は、ノモンハン戦をどのように受け取っていたのですか。
扇 それはもう負けた、それ以外に言いようがないですね。起こすべきじゃなかったのに、戦をして、それで負けたんですね。中にはね、今でも負けたんじゃない、戦闘を中休みしたんだというふうに言う人もいますけど、そんなもの通用しませんよ。
秦 辻政信も、『ノモンハン』の一番最後で、「戦争は負けたと思ったほうが負けなんだ」と書いてますね。
扇 負け惜しみですよ。
クックス 事件の全体を通じて私は考えるんですけど、ソ連はモスクワの統制の下に極めて計画的に、オーケストラを演奏するような形で作戦を実行した。兵士はみんな勇敢に戦ったけれども、日本側には特定のプランはないし、情緒的にその場その場で反応したというにすぎない。比較すればそう言えるんじゃないかと思いますね
扇 そうですね。
須見 全くその通りですね。
クックス 張鼓峯事件でも同じ現象が見られますが、日本軍は一個連隊がやられると、次にまた一個連隊を持ってくる。それがひどい打撃を受けるとまた次の一個連隊というように、全体の計画がぜんぜんない。
須見 ソ連は、しかもその直前に粛清をやっていて、たいへんな数の将官を殺しているでしょう。それで、生き残った佐官クラスが将官の仕事をやるわけですから、スターリンの命令がよく通りますよ。
クックス いろいろ議論はあるわけですけれども、ノモンハン戦で日本陸軍が受け取った最大の教訓は、もう北は懲りたということで、南へ行こうという決定的な動機づけになった。つまり対米戦ということになるわけです。
ソ連ノモンハン戦では100パーセント目的を連したと思うんです。なぜかと言えば、停戦協定が成立した一日後に、ポーランドに軍隊を入れておりますね。東側に青信号が出て、安心して西に出て行けるというのはソ連にとって非常に大きな収穫だったろうと思います。
須見 私一人の勝手な想像ですが、ノモンハン戦でソ連軍は、日本の上のほうは紋切型でなってないが、兵隊がおっかない、これとまともに戦ったらこちらもやられるという教訓を得たと思うのです。ですから昭和二十年八月の対日参戦でも、なるべく日本が手を上げる寸前に出てって、獲物だけ取ることにした。
クックス それを裏書きする一つの材料があります。ベルリン陥落後に、ジューコフが、いままで相手にした中で一番タフだった相手との戦闘はどれかと訊かれて、ヨーロッパの戦闘ではなくて、ノモンハン戦だと答えているのです。その理由として、彼はドイツ軍は論理的かつ現実的に戦うけれども、日本兵は非論理的、非現実的な戦闘でもあくまでも頑張るから、一人ずつ全部を殺してしまわないと戦闘が終らないと述べてるそうです。
秦 それを本日の結論としましょう。

以上はこちらの記事がトリガーになった。夕刊は取っていないので、まあ図書館ででも読むしかない。