読みながら書く『陸軍大将宇都宮太郎日記2』感想(7)

1915(大正4)年

五月二十七日 木 曇
友人斎藤力三郎(第十八師団長)病死の趣に付き、弔電並に香典を電送す。尋で松石安治(ヨビ中将)亦た病死の旨新聞に見ゆ、弔電を送る(番地不慥に付き、香典は帰宅取調の上送らんとす)。

松石遂に死す。

神頭は今や現職務に於ては技量頂上に達したるが如し。此点に於ては山田大佐、野島大佐も略同様にして、此上目醒ましき進境は期す可らず。独り井上は今一、二段は進歩すべしと思はる。神頭、野島、山田、何れも老熟したる好聯隊長なり。井上は未だ熟せず、併し三年位修養せば前三者以上に進むの望みありと謂ふ意なり。

隷下の4人の連隊長の評価。

八月二日 月 晴
此夜は、大村少将、野島連隊長、斎藤大隊長、松井参謀、松原旅団副官、演習場主管古川中尉を集め会食す。

斎藤は斎藤瀏のこと。栗原勇(栗原安秀の父)もこの頃第7師団にいたはず。

十二月十七日 金 雪
夜半十二時やや過ぎ、上原大将より左の電報着す。
   今日親任セラル
愈々参謀総長に親補せられたるを謂ふ。是れより幾分改善の方向に向はせ得べきか、前途の光明を祈る。

上原はこれで陸軍三長官をすべて歴任することとなった。以後7年以上にわたって総長を務め、若手から雷親爺と恐れられることとなる。