読みながら書く『陸軍大将宇都宮太郎日記2』感想(8)

1916(大正五)年

一月十二日 水 雪
本日の新聞に、枢密顧問官陸軍中将子爵高島鞆之助、京都にて脳充血にて頓に薨去の旨電報見ゆ。驚入りたる次第なり。中将は陸軍大臣たりしこともあり、二十七、八年の役には南進軍司令官として渡台し、余は大尉にてその参謀として従軍せり。此縁故より爾来其知を受けたりしが、中将は晩年轗軻不遇、遂に志を得ずして今長逝す。無念想うべきなり、気の毒の至に禁へず、十日薨去、行年七十有三。

宇都宮がずーっと拘ってきた高島子爵が亡くなった。宇都宮との縁は、日清戦争時の台湾征討以来であった。

一月十九日 水 微雪晴
旧知予備騎兵大尉青柳勝敏来訪す。同人は数年前より職を辞し支那の事業に奔走し、第一次革命の末頃には特別資金より金一千円を与へ多少為さしむる所あり。第二次革命の時には李烈釣等を佐けて宇都宮三千雄共に袁世凱の兵と戦ひしが、敗れて亡命者と共に帰朝、彼等の若輩を集めて大森に学校を興し、私に軍事教育を為す等大に画策する所ありしが、最近蒙古に入り巴布札布等と謀る所あり、其遂行に要する資金調達の為め来りしものゝ如し。

青柳はこの後、当初の希望通り蒙古に赴き、巴布札布の第二次満蒙独立運動に身を投じる。青柳勝敏は秋田出身の陸士12期。

四月九日 日 晴
 此夜は、約により午前六時より上原大将の私宅を訪ひ、晩餐を与にし種々の談話を交換し、最后には余の身上に及び、内山の後任として侍従武官長となりては如何との談も出たり。余は不適任なるべきを答へたるも、絶対に拒絶もせず、進退の余地を残して十時半頃辞し帰宿す。

師団長会議により上京し、参謀総長上原勇作と会談。上原は宇都宮の次の職として、内山小二郎の後任として侍従武官長はどうかと聞いてきた。一応は断ったが、何が何でも絶対嫌というわけではないと含みは持たせた。しかし結局、8月、大阪の師団長に転任となる。

六月二十三日 金 晴
 此夜、徳馬の先生を頼度、歩兵第二十七連隊の中尉小泉恭次を招き相談せしに、予ねて中佐中村稲彦、歩大尉大場弥平、副官飯盛正成等より下相談も為しありしこととて同人も快諾、奮ふて之に当らんと答へたり。
 小泉中尉は旧米沢藩士の子にして、幼年学校、士官学校を経て昨年十二月大学校を卒業帰隊せる温厚篤実の人なり。

長男の宇都宮徳馬を陸軍幼年学校に入れるため、優秀な部下将校に家庭教師を頼むことにした。選ばれたのは陸大を卒業して帰ってきたばかりの小泉中尉。彼は戦後、やはり宇都宮が愛した旧部下篠塚義男と同じく、これといって罪は無かったが自決した。