<座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(2)

<座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(1) - There is a light that never goes out.の続き

お粗末な公刊戦史の地図

須見 さきほど国境線のところで申し上げた関東軍が作った十万分の一の地図ですが、これを初期から作戦に使っています。ところが九月に入ると、第六軍が五万分の一の地図をハイラルで作るんです。これは空中写真を基本的に使ってる。この地図では、消えた地点があり、フイ高地もずれてます。十万分から五万分の一になったけれども精度は落ちてしまったのですね。
防衛庁戦史室著「戦史叢書」、いわゆる公刊戦史の『関東軍<1>』には、「付図第二」というノモンハン付近の地図がついています。これは戦場全般を知る大事な地図ですが、二十万分の一としてある。おかしいなと思ってよく調べると、実は五十万分の一なんです。ですから距離が、公刊戦史の付図は二倍半違っているんです。果たして公刊戦史はこれで何を説明しようとするのか。お粗末なもんじゃないですか。
扇 公刊戦史のこの巻の執筆者西原征夫は、私と陸大で同期なんです。私にはいろんな裏話をしてくれました。その時に、武勇伝は多々あるけれども、どこまで前進したというような肝心な点があまり書いてないじゃないかと私は申しました。たとえば七月初旬に日本軍がハルハ河左岸地区に進出したときは、渡河点から十二、三キロも前進したと書いてあるんですね。ところが実際には四、五キロまたは六、七キロしか進んでいません。私は証拠をあげてそれを証明しました。
須見 その距離は、草葉栄大尉(野砲第十三連隊第七中隊長、『ノロ高地』の著者)の証言では八キロですね。クックスさんはそれを採用しておられますけれども。こうした戦史を書くさい、資料の信憑性という問題がありますね。一番信頼できるのは、当事者がその場で書いた日記で、たとえば「小松原師団長日記」とか「第二十三歩兵団長小林恒一少将日記」。しかし、連隊長級以下になりますと、自分で書く暇がない。
秦「須見日記」はないんですか。
須見 父は八月二十二日か三日の夜、全滅を覚悟して燃しています。もっとも、兵隊さんは案外暇があるみたいです。穴を掘って入ったら、あとは命令がくるまでじっとしているでしょう。なかには「御畳奉行」みたいな書き魔がいるんですかね。(笑)
それから「関東軍機密作戦日誌」の現物を読みました。これは全部女性的なきれいな字で服部卓四郎の筆跡です。しかし、これは後書きだなと私は判断しました。事件後、服部は歩兵学校付になって、非常に暇だったそうですから、もっぱらこれを書いていたんでしょう。近代戦法を学生に教えなきやならない立場の人が、どうしてこう言い訳的な記録を作っていたのかと私は言いたいですね。しかし、嘘は書けませんから、参考にはなりますね。
秦 大きな嘘はないんですか。
須見 ないと思います。しかしずいぶん辻棲を合わせているように思います。
昭和三十四年に靖国神社で植田謙吉主催のノモンハン事件関係者慰霊祭がありました。その時たまたま服部卓四郎が私の父に手紙をよこしました。これには「ノモンハン事件につきましては、特に種々浮説が流れており、防衛にありました以上、当時の関東軍の処置は至当のことと今も確信いたしております」と書いています。これに較べると、辻政信の『ノモンハン』のほうがまだ反省している場面がありますよ。
クックス ー九五五年に米軍の戦史部で、服部機関の作った「太平洋戦争史」を英訳しましたが、ノモンハンの部分は、辻の『ノモンハン』と全くと言っていいほど同じだったようです。
須見 アメリカはそれでもいいけれども、日本はそれじゃ困るんですよね。
クックス アメリカのほうも困りますよ。(笑)

小さな橋を頼りに左岸進攻

秦 第二次ノモンハン事件に移って、日本軍は七月三日に大攻勢をかけるのですが、この時、ハルハ河を越えて進攻しようと誰が発案したのでしょう。
扇 これは辻です。
秦 独断専行で……。
扇 はい。小松原師団長は、ハルハ河を越えて対岸へ行こうとは考えていなかったんですが、そばにいた辻が、渡れ、渡らなければ関東軍命令を出すと言うもんですから、そんならと渡ったんです。これは間違いありません。
クックス ハルハ河越えは辻の着想だと思います。戦車団の野口亀之助少佐もそう言っておりました。ところが辻のプランはかなり粗雑で、歩兵と戦車隊の共同攻撃の面で、欠陥があったわけですね。川又の橋を越えて西岸に行けということだったが、戦車は、とても橋を通ることができない。そうか、それじゃ計画を変えようと、歩兵中心に変えた。戦車を有効に使うという発想がどうも乏しかったようですね。
須見 関東軍が新京で決めた最初の案は、ハルハ河のはるか上流のアルシャンのほうから攻撃する案でした。戦車も一緒に行く方式だったと思いますね。ところが調べてみたら、戦車はとても行けない。そこで切り換えたんです。
扇 ハルハ河とホルステン河の中間の地区を南進しましたね。この方向は、私は間違っていると思います。ハルハ河とホルステン河の南のほうの峯から攻撃すべきでした。
 私はわりあい戦車のことを知ってるつもりですが、戦車第四連隊長の玉田美郎大佐の行動については、はなはだ批判的です。命が借しくてやったと言うのではありませんけれども、弾が左岸からどんどんくるものですから、左へ左へと回ってしまう。
 須見 川の東側の話ですね。
クックス 玉田戦車隊は、装甲が薄いので、正面攻撃はムリだから、外側から出て行くということを考えていたのでしょう。まあ、実際はそうはならなかったけれども。
扇 私はちょっと意見が連うんです。玉田戦車隊も、中戦車を一中隊持っているんです。そのほかに軽戦車も二個中隊持っていた。
クックス 中戦車も軽戦車も日本軍のものは、世界最悪の原始的戦車だったと思いますよ。
扇 それは、その通りです。しかし戦車が悪いと言ってしまえばおしまいです。
クックス 戦車第三連隊には九七式中戦車が一両ありました。
扇 あれも一見良さそうに見えますけれども、ろくな戦車じゃないんです。
秦 じゃ、全部ダメですか。(笑)
扇 これが戦車だなと思うのは昭和十八年に出来た三式中戦車までありません。
秦 安岡戦車団の戦車は、全部ソ連の戦車に戦車砲でやられたのですか。
扇 戦車砲でもやられたし、ピアノ線にもひっかかりました。ピアノ線が絡んで動けなくなったところを、対戦車砲戦車砲で撃たれたんです。
秦 話を左岸進攻に戻しますと、ソ連の戦車を百台以上やっつけて、お昼頃までは勝ったと思っていたところ、その後だんだん悪くなって、一晩で撤退ということになってしまうのですね。
クックス 最大の問題は、子供じみた小さな橋一本で、戦車までも渡すつもりでいたことです。橋本少将は、現場を見て、小さな橋一本を頼りに対岸で戦争をやるなんて、士官学校で兵術を学んだ者としては、とうてい考えられなかったと言っておりましたね。
須見 ソ連の戦車第十一旅団は、第二大隊が南から来たけれど、主力の二個大隊約百両は右後ろからくるんですよ。ですから扇さんが書いておられるように、主力は須見部隊に向かって来た。ところが公刊戦史は、服部イズムで固まっているから、須見部隊は一台もやっつけなかったように書いています。小林部隊が敵戦車相手に大奮戦したようになっているんです。
秦 服部戦史の流れだと、小林少将はよくやった、須見部隊はダメだとしたい。須見部隊が敵戦車の主力を引き受けたということになると、話は全部ひっくり返ってしまう。
扇 そうですね。

須見部隊はなぜ低く評価されたか

秦 辻参謀が七月四日に須見連隊の本部に行ったところ、連隊長はビールを飲んでいたという話がありますね。それに軍旗を後方に置いてきていると、悪口を書いていますが、この影響は非常に大きい……。
須見 辻の『ノモンハン』は昭和二十五年に選挙出馬のために書いた本と考えられますが、ビール問題なんか枝葉の問題です。ただ父の伝令が辻政信に、とんでもない、あれは私が水を入れたんで、私が生き証人だと手紙を書いたことがあります。それに対し、参議院議員の辻は、ビールの件については申しわけないとしながら、さらに、「軍旗の件は、軍司令部ではかんかんに怒ったものでした」と返事を書いています。
しかし、軍旗については、これは辻政信のとんでもない浪花節なんですよ。軍旗を中心にして安達大隊を助けに行くべきだと辻は書いているでしょう。しかし、安達大隊の救援になんで軍旗を持って行く必要があるんですか。救援隊は夜襲で敵陣を突破し、機関銃で掩護している間に安達大隊を収容しなきやならないのですよ。そういう部隊が軍旗を持っていったらナンセンスですよ。
秦 軍旗については、七月十日付の第七師団長園部和一郎中将から須見大佐への手紙にもでてきますね。
須見 そうです。その手紙を七月十五日頃、父は受け取っているんです。実は、園部中将は手紙を出す前に第七師団の杉之尾参謀を須見大佐のもとに派遣して、園部中将の意見を伝えています。須見部隊は第七師団から小松原師団に配属されているんですから、杉之尾参謀は園部中将の意図を受けて私的な使いとして来るわけですよ。つぎに手紙が来るのですが、そこでも「一歩一歩と踏みしめて決して後方と連絡断つべからず。又軍旗は要すれば渡河せしめられざるを希望する旨、大兄に申し伝へしめんとする外、何等他意ありしにあらず」とあります。
秦 それで軍旗を後ろに残していったんですか。
須見 いや、七月三日の時点で、軍旗はハルハ河を渡っています。辻政信が来た四日の夕方も連隊本部にあったんです。しかしあんな弾の中で、軍旗を持ってつっ立っているはずがない。ちゃんと伏せています。それを見落としているんです。では、いつ後方に下げたかというと、四日の夜ですね。
扇 そのほかにも、八月二十二日の夜、師団長と須見大佐は論争したんです。須見連隊はご苦労だが、もう一度左側支隊となって、左側から敵の側背に追ってくれと師団長に言われたのです。ところが須見部隊の実兵力は二個中隊、四百人にすぎません。そんな兵力で敵の側背に追るなんてできないと須見大佐は断っています。須見部隊を悪く言うのは、師団長と口論したその腹癒せが大きいのではないでしょうか。私はこのほかに須見を悪くいうことはないと思います。強いて言えば師団長に対するその他の場面の「物の言い方」にあったと思います。これは井置中佐と相似たところです。
秦 なるほどね。
扇 須見部隊は作戦上見るべき失敗は何もなく、むしろ勇戦敢闘した。ところが、師団長は自分の意に反したことを言ったりしたりする者に対しては、とても冷たいんです。私が陸大の学生の時に、秋季演習で仕えてつぶさに見たんですから。だから須見大佐は悪く言われたと思います。事件後、関東軍の参謀副長となった遠藤三郎少将は、「須見大佐を見るべき責任もないのにクビにしたのは気の毒」だったと言っております。
クックス 須見問題の核心は、第七師団から派遣されて来たという配属関係にもあると思うんです。
この当時、師団が動きやすくするために、歩兵三個連隊基幹の師団が増えました。これは欧米でも同じ問題が起きているわけですが、実際には、一個連隊、つまり須見連隊を持ってきて四個連隊編成にしないと、戦闘力に不足するということが出てきたんですね。必ずしも四単位を三単位にしたのが良かったとは限らないという例じゃないでしょうか。
扇 一方では小松原師団長の指揮単位が多過ぎましたね。
秦 そこで第六軍という司令部を新しく作ったわけですね。ところが、その結果が良かったかというと、どうもそうじゃなさそうだ。
扇 そう思います。
秦 どういうところに問題点があったんでしょうか。
扇 第一に、ハイラルに帰って平時業務である軍司令部の編成をやったこと。こんなことは後でやればいいことなんです。戦争の最中なんですから、戦争に専念しなきゃいけない。
第二に、軍の首脳陣によそものばかりを持ってきたこと。状況をよく知っている関東軍司令部の中から引き抜いて軍を編成すればいいのに、それをしなかった。

須見 もう一つ悪く勘ぐれば、関東軍司令部の連中は、それでもって責任を新設の第六軍に押しつけようとしたのではないですか。
私の父は今述べたようなことで事件後予備役に編入されたので、少将になる予定がなれなかった。旭日三等をすでに持っているので日本では勲章の出しようがないんで、満州国の勲二等桂国章をくれましたよ。
扇 須見さんの予備役編入は、ムリがありますね。
須見 でも、それで仕合わせでしたよ。大東亜戦争の時、私はニューギニアに行った第二十師団の下級将校でした。マラリアで戦病死した師団長の青木重誠は父の同期生です。次の師団長の片桐茂も二十五期で戦死。二十五期には、富永恭次武藤章などもいますけど、現役の大多数は師団長クラスでした。それから、アッツ島で玉砕した山崎保代もそうです。たいがいお気の毒に戦死していますね。
秦 戦死と刑死ですか。
須見 私の父は若い予備大佐のくせにとうとう召集されなかった。陸軍省の事務官が志願してくださいと言ってくるんですよ。父は、冗談言うな、ノモンハンで戦いぶりが悪かったというのでクビを切られたので、その後は謹慎中である。その謹慎中の人間が、もっと難しい大東亜戦争に、やりますと言って志願できるかと。このやかまし屋にとうとう召集令状はきませんでした。

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