<座談会>ノモンハン事件の謎と嘘(1)

『歴史と人物』昭和61年冬号

動く国境線

秦 ノモンハン事件は国境紛争が原点です。そこで、まず当時のソ満国境線について論じてみたいと思います。
本日(八月二十八日)、ご帰国を明後日にひかえて出席いただいたクックス博士は、昨年『ノモンハン』という上下二巻の大冊をスタンフォード大学出版局から刊行されました。原書は千三百ページ、注が一千個所近く付いたもので、三十年近い時間をかけて緩められ、内外できわめて高い評価を受けています。まず、クックスさんから……。
クックス ソ連の観点からは、ノモンハン事件は、短時間に終ったただの国境紛争としてではなく、大きな国際的問題の一環として扱われるべきだと思います。
一九三九年(昭和十四年)から四一年にかけ、ソ連にとって国境線とか国境の防備は、ヨーロッパも含めて、重要な問題だったと思います。当時、ソ連にとって最大の脅威は、東西二正面で戦うようになるかもしれないということだったと思います。そのために各国境にある程度の緩衝地域を設けたいと考えたのではないのでしょうか。たとえば東欧での国境線においては、ノモンハン事件の二ヵ月半後にフィンランドに進攻し、一九四〇年にはバルト三国を併合、ルーマニアからはベッサラビアを奪っています。
それと同じ意味で、極東方面の国境でもやはり外蒙を緩衝地帯として利用しようとしたのです。ノモンハン事件でも外蒙という緩衝地帯を拡大するというところに本心があったと思います。ですから、スターリンが六月の上旬に早くもジューコフを呼んで、ハルハ河の東方を確保せよと命じたのは、こういう論脈から考えなくてはいけないでしょう。
秦 ノモンハン事件の末期に第二十三師団参謀に行かれた扇さんは、その体験をふまえて、つい最近『私評 ノモンハン』を上梓され、忌憚のない解釈を述べておられますが……。
扇 ソ連が、領土欲だけで、ノモンハン事件や張鼓峰事件を起こしたという見方もありますが、私はノモンハンに関する限り、ソ連側は本来の領土の線を確保したかったんじゃないかと思います。というのは、ハルハ河の約十五キロ東にノモンハンがあります。そしてそこを通る南北の線が、歴史的に見て正当な国境だったんですね。北川四郎さんの『証言ノモンハン』によりますと、国境線は歴史的に決まっていた。それを関東軍がハルハ河の線としたのは、関東軍参謀が歴史的国境線を知らなかったからだとされている。しかし私は、知らなかったというのは嘘だと思います。大正中期のシベリア出兵で、ロシア軍の将校から、ノモンハン付近の国境線の入った地図を押収したんですね。それにはハルハ河の線が国境線になっていた。これ幸いと関東軍は、それから数年後に国境線をノモンハンからハルハ河の線まで前進させたんです。事件当時の関東軍参謀長、磯谷廉介中将が、陸軍省ノモンハン正面の国境線は正確なところはどこだと問い合わせているんですね。ところが、陸軍省でもはっきりした回答を出せずにうやむやにしてしまいました。そこで国境線は、関東軍の都合のいいようになってしまったんです。
張鼓峯の場合は、国境線が三度変わっております。詳しいことは主題から外れるので省略しますが、ソ連の主張する国境線はソ連側のこじつけだと思っております。
秦 ノモンハンではソ連の主張が正しいが、張鼓峯は日本の主張が正しいということですか。
扇 私はそう思います。
クックス 国境線の問題については、扇さんのご意見に全く賛成です。
秦 ノモンハン事件のさい第七師団の歩兵第二十六連隊長として戦場に赴いた須見新一郎大佐のご長男でノモンハン戦史を研究中の須見さんのご意見は……。
須見 国境は、歴史的には動くものだと思うんです。それにはいろんな人為的な理由がございます。たとえば、東部国境ですが、以前、東寧と言った三岔口のすぐ北側に倭字界標があり、これから北方約百二十キロは全くの直線国境になっています。しかし界標は、十人もかかれば担げるもので、これがあっちへ行ったりこっちへ行ったりする。
秦 辻政信も、自分で担いだと書いてますね。
クックス 作ったと書いている。(笑)
須見 関東軍は国境線を非常に重視して、昭和九年から十年にわたって、国境部分の十万分の一の地図を全部作り、その後も補正の測量をしています。昭和十二年に、私の父が綏芬河の特務機関長をやってる時に、日本人の宮崎萬年という青年が関東軍の命令で東部国境を測量しています。南から測量してきて、綏芬河の特務機関で一服したとき、もう少しだから頑張れ、油断するなと父は言ってます。この青年には満軍から十人前後の護衛が付いていましたが、これが曲者で、測量が完成するのを待って、ソ連側に裏切りました。
秦 ほう。
須見 日本の青年を殺して資料をもってソ連側へ亡命するという事件があったのです。こうして補正を重ねた地図ですから、ソ連側は、ノモンハン戦の時に日本軍の地図を捕獲して、実に正確だと驚いています。当時の従軍記者で後に中央監査委員になったシーモノフがそう書いています。
それからもう一つ、ここに国会図書館にある昭和九年、十年当時のノモンハン付近の地図を重ね合わせたものを作ってきました。これを見ると、国境線は一つではなく変わってますね。動いている証拠です。事件に際してソ連側は自分たちの主張する戦から前へは出ていません。
秦 つまり清朝乾隆帝雍正帝時代のラインなんですね。
須見 はい。南のほうはもっと日ソ双方の主張する線が違うんですよ。ですから本当に争うならば、南のほうだと思うんですけど、このあたりは山地で機動力重視のソ連軍は戦がしにくいところです。したがってソ連は、自分の都合のいいところを戦場に選んでいます。
(もう一枚の地図を出して)これはアメリカが人工衛星で撮った写真から作った地図です。この国境線を見ると、日本とソ連ノモンハン戦後に決めた線と少し違います。ですから国境は今でも動いていると私は思いますね。
扇 東部国境は、石一つ動かせば移動したことになるというのは事実です。しかし、張鼓峯だとかノモンハンの線が軽々に動くはずはないと私は思うんです。ですから、ノモンハンの線までソ連軍が出て来たのは、日満側としても、その正当性を認めなきゃならんと私は思います。
ソ連が、なぜ十三年、十四年の二年間、続いて戦争を起こしたかは、軍備の充実ぶりと関係があります。昭和九年以前は対日戦備が十分でなかったので、ソ軍は戦争を極力抑えたんですね。ところが昭和十年以後は、いつでもやってこいという構えになり、随所で手を出しています。

辻政信の自作自演か

秦、事件のきっかけは、昭和十四年五月十一日頃に外蒙騎兵七百人がハルハ河を越えて侵入してきたことになっていますが、人数は六十人だという説もあるし、日付もふくめどうもはっきりしないんですね。
扇 直前の四月二十五日に、関東軍が「満ソ国境紛争処理要綱」というものを出しております。これによれば、ハルハ河を越えて来たものは、委細かまわず撃ち払え、となります。第三軍司令官の多田駿中将が植田謙吉軍司令官に対して、「このままでは、いまに大事が起こりますよ」と警告したんですね。そうしたところ、関東軍司令官から大上段の一喝があったんです。「そんなことを心配する必要はない。それは私が処理するのだから、あんた方は入って来たものを追っ払いさえすればいいんだ」と。
そこで、外蒙兵六十、この人数は参謀も全部そう言ってましたから、間違いないと思いますが、それが入って来た時に、関東軍司令官がああ言ったんだから、腕の見せどころだと考えて、小松原道太郎第二十三師団長が事件をはじめたんですよ。ソ連は戦争にするつもりはなかったと私は思います。外蒙側はノモンハン付近まで羊を連れて行ければ、それでいい。
クックス ノモンハン事件は一月より春にかけてのいくつかの小さなトラブルが、「国境処理要綱」に発展し、さらに五月の衝突となったと私は考えております。つまり原因はモンゴル側にあったのです。その証拠に、外モンゴルのアマール首相がパージされ、歴史から姿を消してしまっているのです。そして三月に後継者となったチョイバルサンは、アマールの国境紛争処理の方法の拙劣さを公然と批判しています。
秦 一月の小さなトラブルとは……。
クックス 満州国軍の兵隊が、モンゴル軍の大尉を捕まえ、それを百人ぐらいの外蒙兵が取り返そうとして侵入して来たというトラブルが一月にあったのです。ハルハ河の氷が解けて、暖かくなる時期までその報復のチャンスを外蒙側は待っていたとも考えられます。
扇 それは私もよく分かるんです。しかし、ソ連ノモンハン事件を起こそうとしたとは、考えられません。
クックス 以前、服部卓四郎(当時・関東軍作戦主任参謀)さんに訊いた時、彼はノモンハンがどこにあるか知らなかった、そこで事件が起きた時に眼鏡を出して地図を調べたと言われました。しかし、これはどうも誇張じゃないかと思いますね。それから、外蒙の騎兵なるものも、本当は六、七十人ぐらいでしょう。それも単に馬に草を食べさせる程度のことでやって来たのではなかったかと思います。
扇 その通りですね。
秦 扇さんのご本を読みますと、ノモンハン事件関東軍参謀辻政信少佐の自作自演という印象を受けるのですが、問題の「国境紛争処理要綱」も辻が書いたとなると彼とノモンハンは切っても切れぬ関係になりますねえ。
扇 はい。
秦 一少佐にすぎないのに誰もが辻の言いなりになる。これはどういうことなんでしょうか。
扇 あの人にはカリスマ的要素があるんですよ。頭はいいし、行動力もある、身体も丈夫だ。そういう人にみんな折伏され、暗示をかけられてしまうんですね。
秦 辻は実質的な関東軍司令官ですか。
クックス そうです。辻が関東軍を指揮していたと当時、参謀本部作戦課長だった稲田正純さんも言ってました。そして寺田雅雄関東軍作戦課長は辻の傀儡であったと。
扇 その説には私は反対です。寺田は辻と数時間も、やる、やらぬの激論をしました。服部がやると決めたから止むを得ず寺田は同意したんです。これで傀儡となるなら、服部や磯谷は大傀儡になるでしょう。ただ、寺田の欠点は最終的決断にかけていた点にあると思います。
クックス ところで、一九三六年にソ蒙相互援助条約が結ばれ、ソ進はモンゴルを自国と同じように防衛する約束をして、それ以来ソ進軍が駐留してきたという事実があります。それを関東軍はどうも忘れていたというか、無視していたのではなかろうかと思います。
須見 ソ連軍はチョイバルサンに対し、われわれが本当の保護者だということを身をもって実証する必要があったのでしょう。
クックス それなのに東支隊が最初に戦場に出た時、関東軍の情報網は、ソ連軍が進出して来ているということをぜんぜんつかんでいなかった。
秦 中央部と関東軍との関係は、最初の頃はわりにうまくいっていた。悪いのはみんな関東軍で、中央はしっかりしていたという話になってますが、どうもこれは怪しい。
須見 共同責任ですよ。
扇 参謀本部の稲田課長はどうも腰がすわっていない。辻が、ソ連を撃たにゃいかんと号令をかけると、稲田さんもすぐそう考えてしまう。
秦 それに中島鉄蔵参謀次長もふらふらしておりますね。
扇 そうです。中島さんは、私もよく知っておりますが、連隊長の時は、そんな人とは思わなかった。ところが参謀本部に行ってからは、全く腰がふらついてますね。
秦 そのうえ参謀総長は宮様でしょう。だから、参謀本部が事件処理のイニシアティブを取れなかったのもむべなるかなです。
クックス 辻が、事件後に敗戦の責任を追及して多数の指揮官を死に追いつめたと言われています。それ以来、辻の眼鏡でノモンハン事件を見るという傾向が、いまだに残ってるんじやないでしょうか。辻に悪く書かれた軍人では、井置栄一捜索隊長や須見大佐が有名ですが、橋本群参謀本部第一部長なんかも、辻の本の中では、ハルハ河までこないで、逃げてしまった卑怯な男と書かれています。しかし私が橋本さんから聞いたところでは、ハルハ河を渡って戦況を見に行ったそうです。
須見 私の父は陸軍省勤務が長かったものですから、わりあい上層部とは顔見知りなんです。橋本さんとも、橋を渡ってこれから攻撃しようという混雑の中で話をしてるんです。ですから少くともハルハ河まで来ていたのは確かですよ。
クックス 橋本さんから間いたのですが、ハルハ河のあたりで、一時砲兵隊の指揮をとったこともあったようです。彼は砲兵出身ですから。

東捜索隊の全滅はだれの責任か

秦 第一次ノモンハン事件で、東捜索隊が全滅しますね。味方から見捨てられた形で……。
扇 この件で、第一に悪いのは第二十三師団長です。師団長が、山県武光大佐を支隊長に選んだということがそもそもの間違いだと思います。さらに悪いのは山県大佐ですね。あの人は、御身御大切に徹しているんですよ。それからもう一人の責任者は、第三大隊長の譜久村(安英)少佐。この人がまた連隊長に負けず劣らずの御身御大切主義なんですね。それで東捜索隊の救援にも行かない。
もう一人つけ加えるとすれば、捜索隊付の岡元孝一少佐。この人が隊長の東八百蔵中佐に、もうここらで下がったほうがいいと具申します。捜索隊長は、命令がない限り動かないと言う。ここは、動いたほうが良かったと私は思うんです。そこで岡元少佐は、捜索隊から支隊まで連絡に行くんですね。その連絡の仕方が全くなってない。そんなことで、東捜索隊が全滅した原因は、師団長、支隊長、第三大隊長、岡元少佐の複合責任だったと私は考えます。もう一人、強いて挙げるならば、捜索隊長自身で、その頭の切り換えの悪さです。
秦 つまり猪突猛進……。
扇 そうです。
須見 私(陸軍士官学校第五十四期生)は日本陸軍の下級将校としての教育は受けましたけれども、下級将校には絶対に退却してはいけないと教えるでしょう。ところが、軍司令官でも退却命令を出し切らんのですね。元来、捜索隊というのは威力偵察程度はやっても、がっちり戦うという性格の部隊ではないんですね。それが退却できなかったのは、それまでの教育にも問題があります。
クックス 応援のために到着したソ連軍に捜索隊は出会い頭にぷつかった。そういう意味では不運なんですけれども、東捜索隊長が情報に注意を払わなかったという点は、やはり問題じゃないかと思うんですね。いろいろ考察しますと、私は山県大佐の責任が一番重いと思います。

続く