昭和十年代の陸軍と政治・第6章-其の2

新京の関東軍司令部は、磯谷参謀長が陸相になると勘違いして大喜びで飯沼人事局長を迎えました。しかし飯沼から、陸相は磯谷ではなく、関東軍隷下の第三軍司令官多田駿中将であると聞き、一転憤激します。そして飯沼を新京に足止めし、次のような趣旨の電文を板垣陸相に送りました。

大臣辞任の件は、いずれの点より思考するも、この際適当と認められず、特に陸軍として従来の意見に変化なき限り、新内閣に留任すべきは、他の閣僚と趣きを異にするは当然

それに対し板垣は、情勢からいって留任は絶対不可能であるし、大命は今夜にも降下するので、至急人事局長を牡丹江の多田の下にやって欲しいと返電しました。それを受けた軍司令官はまた次のように返しました。

関東軍一般にわたる当面の情勢より見て、この際、軍内部の軍司令官ならびに三師団長の異動は、波及すること統帥上相当の衝動を与える恐れあるをもって、しばらくは絶対に避けられたし。(中略)陸軍大臣留任やむなく多田中将後任として転出の場合、関東軍の現状に鑑み、他に動揺を極限するため、ぜひ板垣中将を多田中将の後任に充当せしめられたし。

もしどうしても多田を出すなら、多田の後任には板垣自身をという、いちゃもんに近い要求でした。板垣は

まげて本職希望の通り至急配慮願いたし

と平身低頭して頼みます。このやり取りの間、飯沼は新京駅で留め置かれました。

このやりとりが示唆するものを見ていきます。まず第一に、中央部では、磯谷中将はノモンハン事件の責任者であり陸相の資格無しと考えていたのに対し、関東軍では責任は軍司令官の植田大将一人が取ればよいもので、磯谷は陸相の資格有りであると考えていたということです。尤もこれは関東軍に限った話ではなく、陸軍省でも飯沼の部下であった額田坦や榊原主計が、「(磯谷で)よかったですナー」と喜び合っています。しかし結局磯谷はこの後、植田共々予備役に編入されました。

第二に、関東軍の多田に対する見方です。電文をそのまま見れば、大変な情勢下で(ノモンハンとは方面が違うが)前線の軍司令官を異動させることに反対であると、つまり多田が陸相になることに反対なのではなく、異動させることそのものに反対していることがわかります。しかし飯沼の到着を、磯谷陸相の誕生と思い込んで、大喜びしたというのが事実なら、これは額面通りには受け取れなくなります。つまり一旦は新陸相を喜びながら、実は磯谷ではなく多田と知って、やっぱり板垣が留任しろと言い出したことになるからです。そして私はやはり、多田の陸相就任そのものに対し、関東軍司令部に忌避する感情が濃厚にあったと見ます。

多田は参謀次長として、支那事変の拡大に消極的でした。一方関東軍は一貫して、強硬に武力解決を支持していました。その空気は、多田が東條と喧嘩をして、関東軍隷下の第三軍司令官に”栄転”してきたときも変わっていません。また彼は、軍司令官としても持ち前の慎重さを発揮しています。昭和14年4月、関東軍隷下の兵団長会議が行われ、その席上で(辻政信の手による)有名な国境紛争処理要綱の骨子が説明されました。その内容を危惧した多田は発言を求め、

「お示しの通りにやると、あるいは思わざる結果を起こすかもしれない。少し考慮の余地を与えられたい」

と述べました。しかし植田大将は

「そんな心配はご無用だ。それはこの植田が処理するから、第一線の方々はなんら心配することなく断固として侵入者を撃退されたい」

としてこれを斥けました。多田は会議の後、第四師団長として列席していた沢田茂を捉まえて

「植田軍司令官はあんなことを言われるが、まことに心配に堪えない」

と密語したそうです。問題の処理要綱はこのすぐ後に、これ以上ないくらいの”思わざる結果”を惹起しました。参謀次長としてノモンハン事件の後片付けをした沢田にとって、この多田の発言は印象的でした。しかし関東軍司令部が、このような多田の態度を面白く感じていた筈は無く、その感情は事件後にも改まったとは思えません。植田はまだしも磯谷という人は、必ずしも物が見えない人物ではありませんでした。これが関東軍の魔力でしょうか。私には関東軍が一個の意思持つ有機体に思えます。あの今村均ですら、関東軍時代はもう一つ冴えませんでした。

最後に、足止めを食った飯沼少将が、本当に牡丹江の多田の所まで行く気があったのかという点です。陸軍省の中堅以下には東條支持者が多かったことは既に述べました。では飯沼はどうだったのでしょう。これは要するに、柳条湖事件の前の建川美次のような態度ではなかったかという意味です(建川は柳条湖事件直前、陰謀の匂いを感じ取った中央部から、”止め男”として派遣されましたが、彼自身が半分陰謀一味のようなものでしたので、酒を飲んで寝てしまい、その役目を果たしませんでした)。この点飯沼は、ちゃんと大臣の命令に従う気があったと、私は見ます。理由は、本書でも引用されている町尻量基軍務局長と彼との間で交わされた会話です。それは次のようなものでした。私は町尻量基追悼録から引用してみます。

十四年の夏、板垣大臣が辞任される際、後任大臣のことで私を呼ばれた時、たまたま町尻君と廊下で会ったら「軍務局の若い連中は、後任大臣は東条さんがいいといっている」というので、私も黙って承っておけばよかったのだが、平生から町尻君とは全く腹蔵なく話し合っていたものだから「僕は東条さんは大臣に適しないと考えている」と答えたところ、町尻君は「うん、そうか」と至極あっさりと打ち切ってしまった。

二人は同期生でした。飯沼は、町尻があっさり引き下がった点から、彼もまたあんまり東條に乗り気でなかったのではないかと推測しています。当時の陸軍省において、こういう意見をはっきり言う飯沼は、やはり板垣の命令を遵守する気持ちを持っていたと思います。

とにかくそうこうしていうるうちに、東京でも動きがありました。

続きます。