人事に対する南京事件の影響

http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/eichel2.html
北支方面軍と中支那方面軍の兵団長のその後の昇進具合を比較し、陸軍当局の南京攻略に対する評価を類推しているページを発見しました。記事では両軍の中将の大将への進級率を比較し、北支の兵団長と較べて中支の兵団長の進級率が低いのは南京事件の影響ではないかとしています。非常に面白いので感想を述べますが、以下の文は私の感覚的なもので、一切論理的な証拠は無いことを先に断っておきます。

支那方面軍では、現役の大将1人がのちに元帥となり、中将8人が大将に進級しています。9/17ですから進級率は 53%。途中で中支那方面軍に転出した2人は、大将に進級していないので、これを控除した、純粋に北支那方面軍傘下指揮官をとれば、9/15すなわち 60%にあがります。なお、駐蒙兵団等を分離した純北支那方面軍だけをとっても、6/10(60%)、ちなみに駐蒙兵団等は、3/5(60%)となります。
(元帥:寺内寿一、大将:西尾寿造、蓮沼蕃、板垣征四郎土肥原賢二東条英機後宮淳、山下奉文、岡部直三郎)

 いっぽう、中支那方面軍では、現役中将8人のうちその後大将にまで進級したのは、わずか1人です。1/8、すなわち進級率は12.5%にとどまります。

この比較が少将から中将への進級率ならば、私もこの結論に諸手を挙げて賛成します。しかし話が大将となるとちょっと首を傾げざるを得ないですね。上級大将や元帥という階級の無い帝国陸海軍に於いて、大将という階級は非常に重たいものでした。運・鈍・根などと言いますが、ただ学校の成績が良いだけは駄目、同期のトップから2年も遅れて中将になった人が大将になり、トップを切っていた人が早々に予備役に編入されたなどという例もあります。そこで改めて大将に進級できなかった中支那方面軍の師団長の面々を見てみます。

  • 第3師団

  藤田進(16、中将36.8、37.8第3師団長、41.1予備)

  • 第11師団

  山室宗武(14、中将36.3、37.8第11師団長、41.1予備)

  • 第9師団

  吉住良輔(17、中将37.8、37.8第9師団長、39.12予備)

  • 第13師団

  荻洲立兵(17、中将37.3、37.9第13師団長、40.1予備)

  • 第101師団

  伊東正喜(14、予備中将34.8任官・37.8予備、37.9第101師団長、39.4召集解除)

  • 第16師団

  中島今朝吾

  • 第6師団

  谷寿夫
  稲葉四郎(18、37.8中将・騎兵集団長、37.12第6師団長、41.12予備)

  • 第18師団

  牛島貞雄(12、予備中将31.8任官・35.3予備、37.9第18師団長、38.7召集解除)

  • 第114師団

  末松茂治(14、予備中将34.3任官・37.3予備、37.10第114師団長、39.3召集解除)

召集された予備の人(伊東、牛島*1、末松各将軍)を除いても、正直順当な結果ではないかなと思うのです。
荻洲中将*2ノモンハン事件の結果予備役に編入されましたが、大将の器とは言い難い人物だったと思います。ちなみに第6軍司令官には元々後宮*3が予定されていたところ、何かの事情で急遽入れ替わりになったといいます。
藤田、吉住両中将も順当な人事だと思います。稲葉中将に関しては前の二人よりは大将に近い所にはいたと思いますが、なまじ進級が早いと予備役入りも早いということです。
問題の人である中島*4は、第4軍司令官時代に、第16師団長時代に南京で得た絵画や骨董品を京都の偕行社に送っていたことがばれて予備役となりました。南京での中島の日記に兵隊の略奪に対する記述があります。
2008-01-25 - ホドロフスキの記録帳

一、そこに日本軍が又我先きにと進入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く此は地方民家屋につきては真に徹底して居る 結極[局]ずふずふしい奴が得といふのである

 其一番好適例としては

 我ら占領せる国民政府は中にある既に第十六師団は十三日兵を入れて掃蕩を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を揚げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすつかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持つて往く

 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあつたが駄目である翌々日入て見れば其内の是はと思ふたものは皆無くなりて居る金庫の中でも入れねば駄目といふことになる

一、日本人は物好きである国民政府といふのでわざわざ見物に来る唯見物丈ならば可ナルも何か目につけば直にかつは[ぱ]らつて行く兵卒の監督位では何にもならぬ堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである

 自己の勢力範囲内に於て物を探して往くといふならばせめても戦場心理の表現として背徳とも思はぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然も既に司令部と銘打ちたる建築物の中に入りて平気でかつは[ぱ]らうといふのは余程下等と見ねばならぬ

一、中央飯店内に古器物の展覧会跡あり相当のものがあつて之を監視したが矢張りやられたとうとう師団長が一度点検した上錠をかけて漸く喰止めた位である

中島としてはそれらの財物を私するつもりは無かったと思います。本人としては略奪から守ったぐらいのつもりで居たのではないでしょうか。まあ手前勝手な理屈ですが。しかし扱いにくい人物であっただけに、陸軍当局としては辞めさせるいい口実であったと思います。
山室中将*5はこの中では一番大将に近かった人物だと思います。尤もこの人は南京には直接関わりがありませんが。彼は砲兵射撃の名人と言われ、無天ながらこの後、陸士校長に栄転しました。その後予備役に編入されましたが、昭和19年に召集され野砲学校長、砲兵監、陸士校長などを歴任しました。結果、陸士校長、野砲学校長をそれぞれ二回、砲兵監を三回務めるという珍しいことになりました。昭和20年には彼を大将に親任させるかどうかという話が畑俊六教育総監から出ましたが、結局見送られました。
松井大将とともに南京責任を問われて処刑された谷中将、彼も中将進級までは同期のトップを走っていましたが、やはり大将というとう〜んという感じです。戦史研究家としては名高い人ですが。ちなみに陸士同期の中島とは仲が悪かったという説があります。ただこの人は昭和12年の年末に稲葉中将と交代していますね。定期異動ではないですし、体を悪くしたという感じでもないので、この人事は少し不思議な気がします。私は理由を知りません。以下、中将の軍状奏上の一部。

(前略)
 次で十八日崑山出発南京に向ふ転進中の兵士の苦労は、更に大なるものがありましたが、凡そ六百粁の道も難なく踏破し、十二月八日南京要塞南方本防禦線を前日来攻撃中であつた第十四師団の後方に到着、直に其左に並立戦闘に参与しまして、翌九日本防禦線を貫き、十日より内部防禦線たるトーチカ陣地を逐次奪取しまして、十二日には南門より城壁西南角に至る輭を占領し、翌十三日午後二時までに完全に担任正面を占領しました。之より先、歩兵第四十五聯隊を十日夜揚子江岸に近く北進せしめましたが、南京より脱出せる万余の敵と各所に遭遇し、之に莫大の損害を与へ、河岸一面死体を以て覆はれたる状態を生じたのであります。
 南京占領後師団は、一部を以て城内、主力を以て城外に位置して居りましたが、軍命令に依り、二十一日出発南京西南方約八十粁の蕪湖を中心とする地域に移り、警備の任につき今日に至ります。
 杭州湾上陸以来敵に与ヘた損害は 凡そ十万と信じます。
 又南京に於て鹵獲せる兵器のみにても、小銃二十七万余、機関銃約壱千五百、迫撃砲壱千参百余、軽重砲百二十門、小銃弾四十五万余、砲弾二十一万余を算しました。
 今次の戦闘を通じ、敵が各種の防備施設を未だ完備しあらざりし情況を認め 日支事変が両三年遅かりせば一層頑強なる抵抗をなせしなりしと思はれまして、交戦の時期は誠に天祐なりしと存じます。
之を要しまするに、第六師団の将兵は忠誠の念極めて強く、実に勇敢無比でありまして、今日も尚十分の戦闘力を保有して居ります。然しながら 今次戦役輭名誉の戦死傷を遂げました忠勇の士が四千百余人の多きに達しましたことは誠に申訳なく 私の真に恐懼に堪へない所で御座います。
 昭和十三年一月二十七日
                       陸軍中将 谷 寿夫


また朝香宮殿下と東久邇宮殿下の比較をなされていますが、陸軍当局の評価は支那事変以前から東久邇宮殿下の方が高かったと思います。近衛師団と第2師団というのは、朝香宮殿下が兄だからでしょう。東久邇宮殿下は、色々物議をかもした発言もありましたが、その頭脳の明晰さには定評がありました。要するにこれは朝香宮殿下が干されたのではなく、東久邇宮殿下が皇族離れした進路を歩まれたととるべきだと思います。

南京攻略に関わった部隊について参謀長や旅団長にまでスコープを広げてみても、格別目に付く所も無く、佐々木到一*6なんかも疑ってみましたが、彼もまた「ケンカ到一」などとあだ名された圭角のある人だけに、こんなものかなあと。結局南京の不祥事は戦中も戦後も松井大将に収束されたと言えるのではないでしょうか。それでは敵首都の攻略に対して報いるところはないのかと言われれば、一応師団長は功二級を受けていますし、また我が陸軍は以外に戦勝の将に冷たいところもありまして。後の大東亜戦争でも、坂口静夫*7とか佗美浩*8とか緒戦の功労者も、無天というだけで結構な扱いです。

以上。まあこれは先にも書いたとおり私の感覚でして、勿論南京事件の中身に影響を及ぼすものではありません。余談の余談といったところです。