徳王自伝

徳王(ドムチョクドンロプ)の回想録より。

 訪日期間中、私は個人の身分で吉田[悳]騎兵監を訪ねた。吉田が包頭で日本駐屯軍の部隊長[騎兵集団長]をしていた頃、私が包頭へ軍隊の慰問に行くと、彼は日本軍部隊を集合・整列させて出迎え、私にあいさつをさせるという特例を設けたので私はとてもよい印象を抱いた。私は彼が他の日本軍人とは違うと思った。私が訪ねて行くと、彼はとても丁重にもてなしてくれ、次のように言った。
「私は包頭を離任しましたが、包頭については人から聞いてよく知っています。私が去ってから、後任の中島[小島吉蔵の誤り]部隊長がずいぶんと悪いことをして、多くの人を逮捕したほか、敵に内通した中心人物の王文治等も殺してしまったそうですね。彼のこのようなやり方はあまりにも稚拙でばかげています。この人たちを逮捕・殺害しても、何の役にも立ちません。なぜ彼らの組織と人員を逆に利用して、我々のために情報を集めたり、敵情を探ったりできないのか。そうすれば、より多くの情報が手に入って、我々の情報源はもっと広がるでしょう」
 当時の私は彼の見識の高さに感心したが、今、思い起こしてみると、彼のやり方はより陰険かつ悪辣であると同時に、日本帝国主義侵略者は硬軟いずれの手口を用いるにせよ、いずれも蒙古族・漢族人民に下心を抱いていたのである。

粗暴な日本人より親切な日本人のほうが悪質だったというこの姿勢は、自伝を通して貫かれている。私は最初にこれを読んだとき、その理屈回しに、中共支配下では日本人を誉めることなど出来ないからなあと苦笑したものだが、最近読み直して、吉田中将の人柄への評価は変わらないものの、確かに徳王の云うことにはある真理が含まれてるなと思うようになった。

吉田悳中将*1

徳王の解釈は兎も角として、吉田が見識ある将軍であったことは確かだ。彼は二・二六事件では北一輝西田税らの裁判の判士長を務めた。彼は裁判を通して北らの人柄に触れ、また事件の実相を知り、これを首魁として処刑するのはどう考えても無理があると考えるようになった。そして、端から処刑すると決めてかかっている陸軍省の大方針に、かなり粘り強く抵抗した。彼の手記は田中惣五郎の『北一輝』に引用されているし、彼が、陸軍省の意を受けて処刑を強硬に主張する藤室良輔*2に送った手紙は、高宮太平の『軍国太平記(順逆の昭和史)』に載っている。
騎兵集団長として蒙古にいたとき、部下のK聯隊長が、敵中に残してきた自動貨車を奪回するため、攻撃を命じ死傷者を出したことがあった。平素怒らない吉田が、このときだけは聯隊長を非常に厳しく叱責したそうである。
騎兵監としては、騎兵の機械化という大改革を成し遂げ、自ら初代の機甲本部長に就任した。世界の潮流から見れば遅すぎたかもしれないが、それでも馬に拘る抵抗勢力は強硬で、吉田なればこそできた改革であったと言われる。機甲本部長として最初に彼が行った訓辞は次のようなものであった。

「考える葦である人間は考えるところにのみ、その存在の独特の意義と価値が存するのであり、考えざる人間は機械であり、単なる水辺の葦に過ぎない。私は、今日考えざる葦の繁茂を見るのである」
「現在軍内に於て、列強の軍事はもとより、国軍の既成事実に対しても、縦横の批判や検討が行われて居るだろうか。一応あらゆる部面に亘り、懐疑の眼を放ち、厳正なる批判を加える必要がある。懐疑は創造の母であり、自分自らの考えに到着する為の道程である」

Y判士の日記

北一輝―日本的ファシストの象徴 (1971年) より。年度は昭和11年から12年。

 十月一日 北、西田第一回公判。北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり。西田第一線の闘士らしく体躯堂々、言語明晰にして検察官の所説を反駁するあたり略ぼ予想したような人物。

 十月三日 西田第三回公判。判士全般と自分の考とは相容れぬものがある。憐むべき心情だと思ふ。自己の立場を一歩も離れ得ぬ人の主張は強い。自他の立場を比較考慮するものゝ主張は弱い。併し何れが是、何れが非か。自分は断じて前者を採らず。世は協同の世界ならずや。

 十月五目 北第二回公判。『国体論及び純正社会主義』及び『国家改造法案大綱』執筆の動機其他自己の運動の過程を述ぶ。偉材たるを失はず。広く世表に顕れざる所以は、其学歴に禍せられて遂に浪士の域を脱し得ざる為か。或は本人の性格他人の頤使に甘じ得ざる結果か。自分は前者と想像する。此の如き現象は軍内天保銭(註、陸大卒業者の記章)問題と同一なり。庶政一新の為の重大事項なり。

 十月二十二日 北、西田論告。論告には殆んど価値を認め難し。本人又は周囲の陳述を籍り、悉く之を悪意に解し、しかも全般の情勢を不問に附し、責任の全部を被告に帰す。抑も今次事変の最大の責任者は軍自体である。軍部特に上層部の責任である。之を不問に附して民間の運動者に責任を転嫁せんとするが如きことは、国民として断じて許し難きところであって、将来愈々全国民一致の支持を必要とする国軍の為放任し得ざるものがある。国家の為に職を賭するも争はざるを得ない問題と思ふ。奉職三十年初めて逢着した問題がある。

 一月十四日 陸軍大臣の注文にて各班毎に裁判経過を報告する。北、西田責任問題に対する大臣の意見全く訳の解らないのに驚く。あの分なら公判は無用の手数だ。吾々の公判開始前の心境そのまゝである。裁判長の独断、判士交換は絶望状態に陥る。F判士罷免か、北、西田の判決延期かの外に手段なく、全般の形勢は後者に傾く。

 八月十四日 北、西田に対する判決を下す。好漢惜みても余りあり。今や、如何ともするなし。噫