吉川英治と騎兵の恨み

三国志」を読んだことがあるか?

誰だったかは忘れたけど、”演義”の訳を出した人のところに、抗議の手紙が来た。手紙の主は、私が知ってる三国志と違うと言っている。何と違うのか、よくよく調べてみると、彼は吉川三国志と比べてそう言っていたんだとか。
「天下三分の計」と旧陸軍の中国認識 - Apeman’s diary
昭和11年、綏遠事件の前のこと。関東軍板垣征四郎*1が部下の花谷正*2などを引き連れて天津を訪ねてきたときの話。応対した多田駿*3池田純*4を前に、傅作義を内応させるから、駐屯軍も協力しろという話をしきりにした。池田はこれに対し反対を表明した。

 「傅将軍は漢人である。徳王は蒙古族である。蒙古族が反蒋運動を展開するからといって、傅将軍が協同作戦をやろうなどとは、とうてい考えられないことだ。これは民族の争いではないか。傅作義将軍が反蒋運動に乗り出すことは考えられない。そんな理屈の通らない戦争に加担するのはご免だ」
と反対すると、花谷参謀が立って、
「池田君は支那の事はまったく知らない。支那軍は一夜にして寝返りをうつことだってあるものだ」
これに勢いを得て、田中隆吉参謀も、
「そうだ。花谷参謀の言うとおりだ」
と、しきりにあいづちを打つのだった。
私は″支那通″認識が、いかに低級単純であるかに、いまさらのように驚いた。
「同民族の戦争の場合は一夜にして寝返りを打つこともあろう。しかしこんどの場合は一民族と異民族との争いだ。関東軍がどれだけの金で傅作義将軍を買収したか知らない。しかし傅作義将軍がもし反蒋運動を展開すれば、彼は民族の敵として、永久にその政治的生命を失わなければならない。そんなばかな事をやるものか」
すると花谷参謀は、
「池田参謀は『三国志』を読んだことがあるか?」
と、まるで子供だましみたいな、人を愚弄した質問だ。私は腹が立ったので返事もしないでソッポを向いていると、 花谷参謀はたたみかけるように、
「池田君どうだ?」
と執拗に念を押すから、
「私は支那の飯は食ってはいるが、支那語は知らないから、支那の書は読んだことはない。しかし私は民族問題については多少勉強しているつもりだ。あなたがたこそ、民族問題の本の一ヘージでも読んだらいいでしょう」
と言ったものだから、座はにわかに白けきって、いまにもなぐり合いにもなりかねまじき、険悪な空気となった。そのとき多田駿中将が、
関東軍の言い分はわからんでもない。しかし、きょうのところは池田参謀の意見に同意だ」
と、断を下し、私に助け船を出してくれた。したがって、この会議は関東軍のためには、決して喜ばしいものではなかった。

騎兵の恨み

最近、ホームページの掲示板で吉橋徳三郎少将*5の話が出た。少将は、豊橋の騎兵旅団長のときに、参謀本部の戦史部長だった国司伍七少将の騎兵論*6に反駁したが、かえって揚げ足をとられ、歩兵将校を馬鹿にしていると決め付けられた。吉橋少将は、もう一度国司少将に反駁する文章を書いたが、この文章は『偕行』に掲載されることはなく、少将は自刃してしまった。大正9年のことであった。
これとは逆の話だが、トハチェフスキーの罪状の中に、騎兵を廃止して戦車・機械化部隊を早急に整備しようという構想を持っていたというものがあった。ブジョンヌイは、このときだけは熱心に、被告の尋問に加わったという。勿論このスターリンの友達は騎兵であった。しかし今ちょうど、『赤軍大粛清』を読んでいるのだけれど、三国志の罪は九族を地で行く粛清っぷりは素晴らしい。しかしここまでやってもらっても勝てなかったんだよなあ。

トハチェフスキーの三度目の夫人ニーナと「国賊」ウボレヴィッチ、ガマルニク、コルク等の夫人は、まず一緒に八年の投獄を申し渡されたが、ニーナ夫人は一九四一年十月に銃殺された。トハチェフスキーの兄弟であるアレクサンドルとニコライもやはり処刑され、トハチェフスキーの母マウラと妹のソフィアは矯正収容所で亡くなった。特に悲惨なのは元帥の末娘スベトラーナの運命である。母がアストラハンの流刑地で逮捕されると、スベトラーナは自ら首をつった。この時十二歳だった。フェルトマンの夫人とトハチェフスキーの別れた二人の先妻もポトマの労働キャンプ「女子と情婦専用」の苛酷な規律で名高い収容所に引き渡され、さらにそれからセゲタ収容所に移された。トハチェフスキーの三人の姉妹と娘の一人だけが迫害を生き延びた。
ウボレヴィッチ夫人も苛酷な目に会い、シベリアのどこかの収容所に消えた。娘はNKVDの孤児院を何年もたらい廻しされた末、一九五六年になって、母が一九四一年に処刑されたことを知る。ウボレヴィッチ逮捕の三年後、将軍の出身地リトアニアの家族までがスターリンの復讐に見舞われる。一九一七年以来「裏切り者」とは全然つきあいがなかったウボレヴィッチの兄は、四人の姉妹とその子供達ともどもシベリア送りになった。彼等がこの嫌がらせを何とか生き延びてリトアニアに帰るのを許されたのは、それから一〇年以上もあとのことである。

20世紀最大の謀略 赤軍大粛清 (学研M文庫)

20世紀最大の謀略 赤軍大粛清 (学研M文庫)