天皇の国軍親率について

沢田茂中将*1

 王者が軍隊を親率することは、中世に至るまで欧州各国に於ても共通の事柄であり、王の主要な仕事は、戦争に自ら当ることであった。これは戦争が人間生活に重要な位置を占めていた時代であり、政治は主権者すなわち当時の王の専制であった。軍隊の親率は、専制政治の重要な基本条件であった。
 七百年にわたる武家政治を打倒して、朝権の回復を目標とした明治維新の直後に於て、この天皇親率主義を採用されたのは当然であった。問題は、その後の憲法制定の時、その国務を責任内閣に委任し、天皇は無責任の地位に就かれた。そして原則上、国務は、その最高点に於て一元に帰さねばならないのにかかわらず、憲法は国務を政治と統帥とに分け、政治は内閣に委任するが、統帥は天皇の手に保有しておくという、立憲主義専制主義の二本建であった。
 国民の内から自然に生み出した立憲政治でなく、外国から発達したものを日本に輸入したのであり、この憲法の建て前は、今から見ると、竹に本を継いだようなものであった。そして国務は、政治と統帥の二つに分かれて運行し姶めた。これは立憲政治輸入の第一歩としては、やむをえなかったことでもあろう。しかし、日本のその後の政治の実際は、立憲政治の完成、すなわち民主政治へ進めてゆくのでなく、専制と民主との中間をさまよい、しかも憲法を万古不磨の大典として、これをあくまで固守する方向に進んでいった。
 英邁な明治天皇が、元老の補弼によって統治された時代には、政治と統帥とを一体として推進され、国務が分岐することはなかった。これは全く天皇個人のご資性によることが大きい。この時代は、むしろ超然内閣と政党との抗争時代であった。
 然らば、明治時代において、天皇親率主義は、軍にいかかる影響を及ぼしたか。日本の歴史と伝統にピッタリと来る天皇親率主義は、日本国軍の発展に最も強力な基礎を与えた。軍は、天皇の殊遇に感激し、恂国奉皇の犠性的忠誠心を固め、世界無比の日本軍の精神を構成することができた。日清・日露の二大戦勝も、実にこの天皇親率主義の賜物であった。天皇親率が、実際に行われた時代であった。
 大正の中頃までは、明治の惰性と山県元帥に対する天皇の信頼と元帥の忠誠により、とにかく天皇親率が維持されており、また元帥の政治上の大勢力は、政治と統帥との抗争を抑えていた。しかし、逐次の元老の薨去と官僚の無力とによって、政治上の権力は次第に政党に移っていった。
 大正の末期になると、事情は全く変化し、天皇の国軍親率は全く形式化した。それは、畏れながら天皇のご資性が国軍親率に適しなかった。また憲法において、天皇直接の責任として残された唯一のお仕事である軍の統帥に当るためのご教育、ご補佐が全く形式的に行われるに過ぎなかった。このため、残念ながら天皇と軍の親しみは失われ、軍の実権は天皇親率の名の下に、軍首脳部に帰した。私は、漠然と軍首脳部というのである。そして、政治と統帥との連繋統一を図る人がなくなり、両者の摩擦、抗争が、政党と陸軍の争いという形で現われてきた。
 政党と陸軍との争いは、政党の腐敗脹堕落と、折から吹きつけてきた北方からの赤い風との関係から陸軍の勝利の形となり、政党は全く政治の実力を失い没落した。軍の政治進出が、従来の腐敗した政治から脱し、何か新鮮なものを招来する期待を求めて、国民はこれを迎えた。
 軍の政治進出の第一着として現われたものは、満州事変であった。これは全く天皇のご意志に副わないものであり、天皇と軍との疎隔は漸く深刻ならんとしてきた。その後、相次いで起こった五・一五事件二・二六事件(これに対し天皇は激怒された)、支那事変、日独提携政策、張鼓峯事件、ノモンハン事件等、一つとして天皇の意に副ったものはなく、天皇は悉く反対せられた。
 この天皇と軍との微妙な感情の間に介在して、政権を握ろうとする新しい官僚貴族の一団があって、軍と抗争を姶めた。もとより公然たる抗争でなく、面従腹背の形でゆくのである。
 この軍首脳部と天皇との疎隔は、軍全般は知る由もなく、軍隊は依然として天皇の殊遇を信じ、これに感激して一死泰命を誓っていた。またこれを信じ「天皇陛下万歳」と唱え、喜んで戦場の犠牲となっていった。なんと痛ましいことではなかろうか。私は大本営の帷幄に参画した当時、この軍隊の実情をみるとともに、軍首脳部の若い人達の間に「天皇の命といえども、国家に利益でないものは服従すべきではない」という思想が広がっているのに、慄然として膚に寒さを感じたことがあった。
 大東亜戦争の直前に於ては、天皇親率の日本軍の首脳部に於て、実にこのような矛盾極まる状態であったが、そのまま大戦争に突入したのであるから、その結果は言わずとも明らかである。
 立法は国家の最大の重要事である。この明治憲法の二重性が、遂に国家を破滅に導く一大原因となった。
 天皇親率制を実際に具現するためには、天皇がさらに軍隊に親炙接近されるべきであり、また親補職以上の人事は、御自ら掌握遊ばさるべぎであったと思う。
 天皇親率のもとに、天皇と軍との間に、このような疎隔が生じようとは誰も予想しなかったところである。所詮、統率は人の問題である。世襲天皇が、常に統率の適任者であることは難しい。やはりなんらかの制度で、これを補うほかはない。前述の人事のほか、側近補弼として元帥会議、参謀総長、皇族等が考えられる。