昭和十年代の陸軍と政治・第6章-其の4

御座所から退出してきた阿部大将は、「鼻から三斗の酢を吸ったような」表情だったといいます。宮中でのお言葉は、羽織袴姿の参謀本部第二課長稲田正純によって、陸相官邸で待機していた有末精三大佐に伝えられました。稲田大佐は阿部大将の娘婿という関係から、連絡係をやっておったのです。お言葉は「憲法の遵守、英米との協調、健全財政」そして、

「どうしても梅津か畑を(陸軍)大臣にするようにしろ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持って来ても自分はこれを許す意思はない」

というものでした。それを聞いた有末は、「電気ではねられたように」驚き、それは湯浅内府の言葉か、それとも陛下直々のお言葉かと確かめ、直々のお言葉と知って二度びっくり、慌てて西尾教育総監、中島参謀次長を招聘し、改めて協議が行われました。

ちなみに児島襄の『天皇』第4巻によれば、陛下は阿部に椅子をすすめ、

「永井(柳太郎)は排英運動をやっておったが大丈夫か。鉄道、逓信の兼任は無理ではないか」
「陸軍はやはり梅津が嫌いなんだね」
「司法大臣はあれでいいのか」

といった質問をされたそうです。

梅津か畑かと言われても、梅津は関東軍司令官としてノモンハン事件の後片付けをという話もあり、侍従武官長の畑俊六大将を下げ渡し願うことで決まりました。その間、陸軍省の空気は「惨として声なし」といった具合で、元気者の有末大佐もシュンとしていたそうです。

新たに陸相となった畑大将は、陸軍省の高等官以上を集め、「自分の任務は天皇陛下に御信頼して頂くことの出来る陸軍になるよう、建て直すこと」であるという、非常に厳しい訓示を行いました。その後、軍務局長、人事局長、次官は逐次転出し、新軍務局長には次の舞台の主役となる武藤章がやってきました。

関東軍は軍司令官、参謀長が共に交代、多田中将は同期の梅津の下ではやりにくかろうということで、北支那方面軍司令官に栄転、畑の後任の侍従武官長には藤江恵輔第十六師団長が推薦されました。しかし藤江中将は、不動の姿勢を取ると目眩がするという健康上の理由からこれを固辞、結局蓮沼蕃中将が就任しました。蓮沼中将は陛下の第一の意中の人物でもありました。藤江中将は参謀本部附となり、後任の師団長には石原莞爾がなりました。これは辞めていく板垣陸相の最後の心遣いでしたが、これを見て、藤江の侍従武官長推薦は石原を師団長にするためではなかったかという悪声が、海軍側からも上がったということを、畑が書き記しています。板垣は8月の定期異動で石原を師団長に推薦する人事案を出しましたが、陛下はなかなかこれを御裁可なさらず、結局しばらくは師団司令部附にして様子を見るということになっていました。しかしこの2度目のトライで、東京以外の師団長なら宜しいという許可を得たのです。同時に駐蒙軍司令官への就任が却下されていた山下奉文も、許されて第四師団長となりました。

以上がこの騒動のあらましですが、しかし何故陛下は突然そのような要求を阿部大将に突きつけたのでしょうか?次回以降謎解きです。

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