昭和十年代の陸軍と政治・第6章-其の1

第6章 阿部内閣における天皇指名制陸相の登場 ―畑陸相就任の衝撃―
この第6章こそ、多田駿マニアの私にとってはメインディッシュです。この件に関しては以前にも触れています。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-66.html
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel02/tada.html
が、改めて簡単にことの経緯を見てみます。

当時日本は三国同盟を巡って延々と五相会議を繰り返していました。そんな中、独ソ不可侵条約が突如結ばれ、平沼騏一郎首相は”何これ、イミフww”と総辞職してしまいます。同盟締結に邁進していた陸軍もショックを受け、同盟は一時棚上げとなりました。陸軍は、次の内閣は、賛否を問わず同盟問題に関わりのあった人を避けるべしという方針を決めました。これは即ち賛成派の小磯国昭拓相、反対派の米内光政海相荒木貞夫文相といった人々を指しています。すったもんだの末に大命は阿部信行に降下しました。そこで陸軍首脳は恒例の三長官会議を開き、阿部新内閣の陸軍大臣の詮衡を行いました。

陸軍省の中堅層の支持は、前次官で現在航空総監の東條英機に集まっていました。しかし上層部の考えは違っていました。陸軍次官の山脇正隆は、参謀総長閑院宮殿下の邸で行われた三長官会議での、陸相詮衡の模様について次のような証言を行っています。

一、東条案
 これは防共協定が不可能となり、陸軍の今後の動向も考慮してこの際、向う意気の強いのが必要である。しかし東条さんは人事に対する意見があまりに一方的にはっきりしており、国内に対する評判も心配がある。あまり強硬な主張をすると、かえって諸問題の成功を阻むものであるから、との理由の下に板垣さんも我々も同意見で反対をした。
二、西尾案
 これはやむを得ない時は西尾(寿造大将)さんという案も出るだろうが、今は支那総軍司令官の引当てになっている。また中級将校には西尾さんに反対意見が多い。
三、磯谷案
 これは誰もが第三案に挙げる案であったが、最近のノモンハン事件の当面の責任者であり、また軍司令官の責任処罰をすることになるかも知れないのだから、この際問題とすることができない。
四、多田案
 これはとくに人事に於いて、東条案と反対で普遍的であるがその周囲の人選がよければ、公平な人事を行ない得ることができるだろうから、他に人がなければ仕方がなしこれで行く外はない。

一つ一つ見ていきましょう。東條は陸軍次官時代、支那事変などに対し非常に強硬な姿勢を取っていました。彼自身はそのせいで陸軍次官を辞めざるを得なくなるのですが、それによって中堅若手の心はがっちりつかんでいました。元々は板垣陸相も東條を信頼していたと思います。そうでないと、自ら自分の次官にと望まないでしょう。しかし浅原事件などを経て、この頃の彼の東條に対する感情は、相当に悪化していました。浅原事件のとき、兵務課長の田中隆吉が、石原莞爾を軽い処分に処した方が良いと進言しました。それを聞いた板垣は血相を変え、

「何たることを言う。こういう陰謀は許されない。この陰謀を行った連中はそれが航空総監たると憲兵隊長たるを問わず、断固として解雇する」

と田中を叱りつけたそうです。航空総監は東條を指します。憲兵隊長というのは、東條の腹心と言われる加藤泊治郎のことです。要するに板垣は浅原事件を、石原や更には多田及び自分までもを陥れる陰謀と見ており、その策源地は東條であると考えていたわけです。そういう経緯もあって彼は東條案に反対しました。他のメンバーもこれに同意であったようです。ちなみに「人事に対する意見があまりに一方的にはっきりしており」という分析は、好き嫌いの激しい東條の性格をよく把握したものと言えるでしょう。


西尾寿造は4人の中では一番の先輩であり、この当時は三長官の一である教育総監でした。しかしいくらなんでも本人がいる席で「中級将校には西尾さんに反対意見が多い」などという話はされないでしょうから、会議には出席していないのでしょう。彼は非常な能吏(それこそ東條以上の)でしたが、部下にも同じだけを求める人で、その峻厳さは陸軍部内で定評がありました。「中級将校には西尾さんに反対意見が多い」というのはそのことに由来します。彼が教育総監部の第一課長から平壌の旅団長に栄転するとき、送別会の席上で当時部下だった武藤章が、

「課長は今度目出度く進級し、田舎の旅団に行かれるが、部下の頭と鋭敏極まる御自分の頭とを同等と考えられ、あまりやかましく云われると、皆逃げ廻って、なつきませんよ!!」

と冗談めかして忠告したことがありました。が、持って生まれた性格は変わらず、平壌でもビシバシやったため、部下は逃げ廻っていたそうです。しかし何よりも、彼は新たに編成される支那派遣軍の総司令官への就任が予定されていました。日露戦争大山巌以来の”総司令官”という重職の人事はそう忽せには出来ません。ですのでこの案も却下となりました(ちなみに総参謀長には陸相を辞めた板垣が就任したことからも、その重さが分ると思います)。

磯谷廉介は所謂支那通でありながらも、軍務局長などの中央部の要職を歴任し、往く所可ならざるなき人物で、本来なら陸相の資格がありました。しかし山脇も言うとおり、彼は関東軍参謀長として、ノモンハン事件の当面の責任者でしたから、この時点での陸相就任は論外でした。

多田駿も磯谷と同じく支那通でしたが、上記三人とは違い一度も陸軍省に勤務した経験が無く(この点は板垣も同様)、本来なら陸相候補に名前が挙がる人物ではありませんでした。しかし時代の巡り合わせという奴でしょう。彼は東條のように偏った性格でもないので、補佐する人がよければ、まず無難であろうということでした。補佐役というのは誰を念頭においてのことか勿論知る術は有りませんが、あるいは板垣の頭には石原のことがあったかも知れません。陸相を辞めていく板垣にとって、石原の今後は心配事の一つでした(後に石原が遂に予備役に編入されたとき、そのニュースを板垣に伝えた幕僚が、「これで閣下も肩の荷が降りましたね」といったところ、板垣は「そんなことではないんだよ」と心底寂しそうに答えたそうです)。しかし多田なら、其の点は何の問題もありません。多田は板垣と並ぶ石原の数少ない庇護者でしたから。ちなみに、当の石原はこの二人について、先輩として敬愛はしつつも、自分がいないと駄目な人々と看做していた節がありますw彼は死の床で、

「多田さんや板垣さんが先に逝かれたが、寂光への道でウロウロしてはいかんから早く行って案内してやりたいと思ったりしています」

と、彼一流の諧謔で二人への気持ちを表現しています。

また多田は新首相の阿部と同じ砲兵科でした。圧倒的多数を占める歩兵以外の兵科は、その兵科内での繋がりが強く、二人も自然親しい間柄であったそうです。更に阿部の娘婿の稲田正純は、その兄が多田の師匠である坂西利八郎の養子である関係から(亦彼も砲兵)、多田に可愛がられていました(本人談)。そういった人間関係も考慮され、三長官会議は、全員一致で多田を次の陸相に推薦することを決定し、人事局長の飯沼守を満洲の多田の下へ派遣しました。

長くなるので続く

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