クノップ『ヒトラー暗殺』

録画していた『ブラックブック』を見終えた。主人公は『ワルキューレ』でニナ・シュタウフェンベルクを演じているカリス・ファン・ハウテン。『ワルキューレ』では印象薄かったけどね。ムンツェ大尉は『オペレーション・ワルキューレ』のシュタフェンベルク役のゼバスティアン・コッホ。ちなみにこの人、シュペーアも演じたことがあるそう。
1944年7月20日事件の犠牲者名簿(1)
1944年7月20日事件の犠牲者名簿(2)
これは『権力のネメシス』の後ろの付録を時系列に直したものだけど、”犠牲者”ということで、ロンメル元帥の名前はあるが、クルーゲ元帥は無い。フロムは言わずもがな。このリストにはないが、”孤高の英雄”ゲオルク・エルザーも1945年4月9日にダッハウ収容所で処刑されている。同日にはカナリス、オスターも処刑されている。二人は裸にされてから絞首台まで歩かされた。

僕は売国奴だと言われるかもしれない。だが実際は違う。ヒトラーにくっついてる連中の誰よりも、僕のほうがよきドイツ人だ。僕の計画は、それはまた僕の義務でもあるが、ドイツと世界をこのペストから解放することだ。
−−ハンス・オスター

また独断撤退の抗命罪でいったんは死刑判決を受けながら、その後禁固刑に減刑されていた伯爵シュポネック中将も、リストには無いが事件の3日後に処刑されている。同じく死守命令を無視したということで、軍籍を剥奪されていたヘプナー上級大将は、実際に計画に加担し、フロムの後の予備軍司令官に就任した。

テオドール・アイケに対して)お前たちは兵士ではない。単なる人殺しだ。
−−エーリヒ・ヘプナー

狂いまわるローラント・フライスラーにフェルギーベルはこう言ったという。

絞首刑を急いだほうがいい。でないと、死刑囚よりさきにきさまがつるされるだろう。
−−エーリヒ・フェルギーベル

通信総監だったフェルギーベルは、狼の巣の通信を遮断する役目を帯びていたが、それをうまく実行することができなかった。これをとんだトンマだと罵る本もあるが、マンシュタインの副官だったシュタールベルクは、フェルギーベルとシュラーブレンドルフが、ゲシュタポの酷い拷問にも係わらず、何もしゃべらなかったために、自分は助かったと書いている。
「家畜のように吊るせ」がヒトラーの命令だった。

十九時より五分おきに、死刑囚は刑務所中庭を経由して処刑場へつれてこられた。最初はフォン・ヴィッツレーベン元帥、次はベルリン駐留部隊司令官フォン・ハーゼであった。ハラルト・ペルハウ師は死刑台へ向かう二人につきそった。「きわめて厳粛に、冷静に、完璧に落ち着いて」、二人とも「敬虔なクリスチャンとして死出の旅路に」ついた、と牧師は後に記している。ただハーゼは、妻子の運命に大きな不安をいだいていた。
処刑室は黒いカーテンで二つに仕切られていたが、そこにもまたカメラがスタンバイしていた。サーチライトのぎらつく光がその部屋を不気味に染めあげている。天井にはスチール製のレールが固定され、そこから八個の食肉用フックがぶら下がっている。すべての手続きは法治国家の原則に従っているとでもいうように主席検事が再度判決を読み上げた。続いて、二人の死刑執行助手が被告をレールの上に立たせ、首に輪をまわした〔絞首刑にはピアノ線が使われた〕。それから被告の身体は高く持ち上げられたが、その際に死刑執行人が止め輪をフックに巻いた。そして被告は下に落とされた。
死刑執行人は犠牲者全員に同じことをした。たいていの場合、即死にはならなかった。頚骨が祈れないので、彼らは窒息死するまでつるされていた。つるされて意識を失っただけで早々と輪をはずされてしまい、意識が戻ってあらためてつるされたケースもいくつかあった、そう思われる節もある。死の直前に囚人はズボンを引きずり下ろされた−これが最後の侮辱だった。死体が見えないように、次の者が入室する前にカーテンが閉じられた。ザッセというカメラマンの言によれば、死刑囚はみな、「嘆きの言葉一つ言わずに、背筋を伸ばして」絞首台へ向かった。死刑執行人にはあとで強い酒がふるまわれたとのことだ。ペルハウ師は処刑そのものには立ち会わなかったが、彼の推測するところ、ヒトラーの復讐心の強さに応じて、囚人がつるされた時間も異なっていたようだ。
独裁者は自分の敵が断末魔の苦しみにあえぐさまを詳細に撮影させていた。報告によれば、彼は想像を絶するサディスティックな映像を、その夜のうちに裁判記録といっしょにベルリンからヴォルフスシャンツェへ送らせ、何度となく鑑賞しては飽きることがなかったという。瀕死の男たちのむごたらしい場面を、彼ほどおもしろがった者はいなかったそうだ。処刑された人々の一糸まとわぬ遺体写真は、その後何日もヒトラーの地図テーブルを飾った。残忍なシーンの映像を、彼はその後何週間もくりかえし眺めた。もはや他国民を自身の虐殺趣昧のえじきにできなくなった男は、自国民の正義の人々を復讐心のえじきにした。それは大量虐殺者の倒錯した愉しみだった。
トレスコウの娘婿カール・フォン・アレティンは、戦後バイエルン・ラジオ局で、これら残虐映像の一つを見ることのできた数少ない人物である。フィルムが跡形もなく処分される前のことだ。彼が見たのは、裁判と処刑シーンを編集したものであった。それはあまりにおぞましく、「どのような状況であれ、このフィルムを放送するわけにはいかない、私たちはただちにそう悟りました」。居合わせた女性秘書は「映像に耐えられず」、気を失ったほどだ。公開は事前に中止された。添付の上映リストから、ヒトラーが総統本営でこれを何度も上映させたことが明らかに浮かび上がった。アレティンがとりわけ記憶しているのは、いうなれば「シーソー刑台」で執行された、きわだって残虐な処刑方法である。どうやらヒトラーの手先は、絞首刑の方法についてさらに倒錯した第二のヴァリエーションを考案したようだ。「はっきりとは認められませんが、シーソー刑台で一人がもう一人を殺したのは事実でしょう。つまり一人は抵抗できるのですが、そうすればもう一人の首が絞まるのです。それがしばらくのあいだ、交互にくりかえされます。このおぞましい方法では、二人とも死にいたるまでにかなりの時間がかかります。じつに残虐な処刑方法です」。

ヒトラーは処刑映像を見なかったという説もある。陸軍士官学校では士気高揚のために上映されたが、逆に士気に壊滅的打撃を与えた。