宇都宮太郎日記1907-1908

1907(明治四十)年
一月二十八日 月 晴
 平山信成長女春子を歩兵大尉松井石根に勧め、今日手紙にて再考の余地あるや否やを尋ねしに、自分は総長の宴会故来れず、弟七夫をして来事情を打明け陳謝せしむ。要は親父の負債一万二千もありて之を兄弟四人にて負担し居る故、当分妻帯出来ず、且つ気の毒なりと云ふにあり。故に此方にては善く熟談も致すべく、其方にては何れにして整理を謀るべしと告げて帰らしむ。

<注釈>
平山信成長女というのは、宇都宮にとって姪にあたる(妻の姉が平山家に嫁していた)。松井石根は陸大を首席で卒業した俊英であり、宇都宮はこれに姪を娶わせようと考えていた。ところが、松井には父の借財があり、妻を娶るような状況ではなかった。そこで、自らは所要のため、弟の七夫(後に陸軍中将)を使者とし、其事情を告げ、婚約を固辞した。この娘は翌年、別の人物と結婚した。松井は後年、佐賀出身の真崎甚三郎と対立したが、もし彼が宇都宮の縁戚となっていたら、二人の関係はどうなっていただろう。



二月二十五日 月 快晴
 早朝安倍午生来る。山本達雄女縁談に付き寺内大将長男寿一(大尉、大学一年生)に付き聞合に来る、先づ中以上と答ふ。

<注釈>
宇都宮はこの当時、陸大幹事をしていた。陸大1年生であった寺内寿一の成績や将来性について聞かれ、中の上と答えている。寺内の卒業席次は恩賜一歩手前の7番。しかしこの縁談も不成立で終わっている。



六月九日 日 晴
 角田政之助、篠塚義男、山脇正隆、上田道太郎、野村素一、阿南惟幾、服部保、竹中経雄、村上修造、伊田常二郎、猪熊敬一郎、三沢郁哉、芦沢敬一郎、是松豊助を連隊に居残らしむること、第二十六連隊の少尉持永虎吉を東京以西の連隊へ移すことを(これは本人より以来し来りし故)、陸軍省人事局草生政恒に以来し遣る。

<注釈>
宇都宮は5月より、歩兵第1聯隊長になっている。さすがに頭号聯隊だけあって、後に名を残した人が多い。



1908(明治四一年)
三月四日 水 雪
 午前八時過、第二大隊長少佐福田栄太郎来り、昨夜第五中隊の兵卒三十二名脱営、行方不明の趣を報告し、尋で週番中隊長の報告も到着せり。直に登営、大体を尋ねし、詳細は未だ分からざるも、中隊長代理中尉猪熊敬一郎の仕向に服せず、大隊長に訴へんとて昨夜九時三十分頃夜間演習の風を装ひ三十二名駆歩にて脱出し、他に五名は衆に後れ別に大隊長宅に至り他は至らず、大隊長は此五名は還へし自分も直に登営、殆んど徹夜にて三十二名の踪跡を尋し不明。尚捜索の方法等を糺し、与倉、向西の洋行を新橋に見送り、十時過帰営せしも踪跡尚不明。併し取敢へず旅団と師団へ略報す。
 
三月六日 金
 本日も取調を継続し事態益々明瞭となる。要するに猪熊中尉の統御に不平の余り之を大隊長に訴へんとせしことは大体に於て事実なり。

三月七日 土 大雨
 脱営者の首謀者は一等卒佐野新太郎(伊豆七島中の新島本村のもの)なること分明す。

三月八日 日 晴
 第五中隊付中尉伊田常三郎来訪。猪熊平生遣口不当の事実を詳述す。

三月十二日 木
 第五中隊脱営事件に付き左の処分を為す。
 中隊長代理中尉  猪熊敬一郎 重謹慎 二十日
 中隊週番特務曹長 中楯理重  同   三日
 大隊長少佐    福田栄太郎 同   五日
 佐野以下の兵卒三十七名は結党並に哨令違犯として本日求刑。此段落と共に余も進退伺いを出し、軽謹慎三日に処せられる。

<注釈>
記述の通り。中隊長代理猪熊敬一郎の指導が厳しすぎることに不満を爆発させた兵卒たちが、夜間に脱営し、営外居住の大隊長に直訴しようとした事件が発生した。猪熊はこの一件が堪えたのかどうか、病を得て2年後に休職、そのまま予備となり、明治44年に死去している。彼の日露戦争中の日記を元にした『鉄血』という本が死後、出版された。



十月九日 金 晴
 本日師団の名誉射撃施行。昨年以来臥薪嘗胆も言ふに足らざる大熱心を以て部下を督励し、部下亦た能く余が意を体して苦戦奮闘殆ど全力を傾尽して争ひし末なれば、天下分れ目なる今日の勝敗如何と心配も一方ならざりしに、第一より第四(第九、第八、第五、第六中隊)までは尽く我が連隊にて占め、第五に第十五連隊の首位初めて顕はれ、第三、第二連隊の如きは第十九以下と云ふが如き好成績を以て全勝を制したるは実に近年に無き愉快なりき。実に余が連隊の事とし云へば、彼是非難の声のみ多く、某々連隊の如きは事実は兎に角四方より誉めそやし、果ては余の教育方針までも云々する当局者上級者あるに至り、余も心中実に残念に思ひ、何んに致せ講評者の見様にて如何様にも講評出来る事にては到底余に勝を与へざるべきを信じ、彼等の争ふ余地なき事実を数字にて表はす射撃が彼等と真の実力を争ふ最良のものなりとして、去年十二月以来非常の熱心を以て之れが教育に従事せしに、部下の将卒も漸く余が方針を了解し、早朝より人員検査后まで暇さへあれば之に従事し、中隊長の多くは夜も晩くまで居残り、殊に第一位にて名誉旗を得たる第九中隊長高橋辰彦の如き、射撃当日前五、六週間は兵営に詰切り、三十八度の熱ある病気にても帰宅せずして自ら教育を督励し、又た彼の結党脱営者の如き是非共実効を挙げて託するとて非常に奮励し、竟には兵卒側より中隊長に希望して亦た五、六週間は毎週二回宛射撃場付近に露営して他隊の射撃日を其到着以前に使用する等(余も一回此第五中隊とて山原に露営して実際彼等の奮闘を実視せり、中隊長は外山実衛)其他の諸中隊も略同様の熱心や方法を以て奮励せし次第にて、実は単に一名誉旗の争にあらざりしなり。否余及び余が連隊の名誉上死活の争ひたりしなり。事情斯くの如くなりしを以て、非常の相異を以て彼等閥族及び之に迎合ぜる徒輩が誇称せし所謂模範連隊を撃破したる時の愉快は、昨年以来の無念一時に消散して何とも名状出来ざる程なりしなり。

<注釈>
天下分け目とまで称した師団特別射撃は、宇都宮の第1聯隊が1位から4位までを独占するという圧勝に終わった。聯隊長就任以降、何かとその指導方針に文句を付けられ、また前述の脱営事件もあり、溜まりに溜まっていた鬱憤を一気に晴らした格好となった。「某々連隊の如きは事実は兎に角四方より誉めそやし」とあるように、彼への非難は、それ単独ではなく、必ず「某々連隊」への賞賛とセットで為された。この某聯隊というのは、同じ東京に位置する歩兵第3聯隊である。そしてその聯隊長こそ、田中義一であった。宇都宮の喜びがどれほど大きかったかは、想像に難くないだろう。ちなみに第3位に入った第5中隊は脱営事件を起こした中隊であった。宇都宮はこの事件によって処分された人々、特に脱営した兵卒に関しては、後々まで非常な関心を持ち、何かと世話を焼いている。



十二月五日 土 晴
 参謀本部第二部長松石安治より面談し度旨電話あり。本部にて会見せしに、参謀本部にては其後任に余を推薦したるも長派故障を付け行悩の状況等打明け、余も先般来彼等が各種の手段を尽して余の揚足を取り陥擠せんとするの状況を語りたり。彼等は余を排して大井少くも彼等系統のものを入れんとするなり。其与党にて参謀本部を占領せんとて何かと余を傷けて余を排斥せんとするに至りては、其陰険陋劣宛然御殿女中の状態なり。構陥排擠等の文字は歴史中に能く見たる文字なるが、今、面のあたり余が其文字中の人たらんとは実に慨かはしき世の有様なりと云ふべし。

<注釈>
松石安治は、当時陸軍きっての作戦家とうたわれた逸材中の逸材であり、宇都宮と同じく反長州の闘士であった。松石は自分の後任に宇都宮を推した。参謀本部はこの前年に大幅に改編され、第二部は情報部となっていた。情報畑を歩んできた宇都宮は最適任であった。しかし長州派は、この席に大井菊太郎(後に改名して成元)か、そこまではいかなくても自派の息のかかった人物を送り込もうと活動していた。その陰険さはさながら御殿女中の如くであると、宇都宮は怒りを込めて記している。



十二月二十二日 火 晴
 本日の官報にて陸軍武官の大移動発表せられ、余も幾多の邪魔ありしも竟に参謀本部第二部長に補せられたるを知る。但し現官等大佐の儘なり。総長は大将奥保鞏、次長は中将福島安正、総務部長兼第四部長は少将大島健一、第一部長は少将松石安治、第二部長は余にして、第三部長は少将大沢界雄の顔触なり。茲に再び本部に舞戻り感無量。これより大に為すあるを矢ふ。但し当分は沈黙のこと。

<注釈>
結局、宇都宮は無事参本第二部長に就任することができた。松石は作戦の第一部に横滑りし、総務部長には後の駐独大使大島浩の父で長派の大島健一(後に陸相)が、第三部長には輸送の権威である大沢界雄がそれぞれ就いた。


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