読みながら書く『陸軍大将宇都宮太郎日記2』感想(2)

1912(明治四五/大正元)年

八月三日 土 晴
午后、志波今朝一来宅(小倉市長候補を思立ち、余をして奥元帥に説せしめんとのことなれども、此際と云ひ又た元帥と余との関係と云ひ、無効なるのみならず却て有害なるべきことの理を詳説して還へす)。

志波は佐賀県人で陸士は宇都宮の一期後輩になる。小倉市長になりたいと考え、小倉出身で陸軍の大御所である奥保鞏元帥に宇都宮から口添えをして貰いたいと依頼してきたが、宇都宮は自分では逆効果だと断っている。奥とは折り合いが悪かったのか?

八月五日 月 曇
帰途、大臣秘書官歩中佐井戸川辰三を其官舎に訪ひ、妻女に祝詞を述ぶ。井戸川は大臣の同県にて余等多年の同志なり。漸次大臣の身辺に同志の腹心を配置し大臣の位置を擁護するの目的にて、其第一着手として先づ井戸川を入れしなり。此次は機を見て長州人竹島音次郎の転出を機とし、陸軍省の高級副官に現砲兵課長奈良大佐を入れんとす。

徐々に上原の周りを同志で固めるという計画。第一弾として上原と同郷の井戸川を秘書官にした。更に機を見て高級副官に奈良武次を据えようと考えている様子。実際奈良はこの後高級副官になる。奈良は栃木県出身、誠実な人柄で後に東宮武官長/侍従武官長として長く昭和天皇に仕えた。

八月十八日 日 晴
薄暮、歩中尉篠塚義男来宅、長閥某の女を娶るの可否に付相談あり。相談にも及ざる次第なるべきに相談するは、其意あるの証なれども、本人の為め不利益なるべきを告示す。

兼ねてより可愛がっている篠塚が、長州人の娘との縁談を持ちかけられ、相談に来た。成績優秀眉目秀麗の青年将校であるから、周りもほっておかないのだろう。宇都宮としては即座に断らないのが不満。自分のところに相談に来るということは、篠塚としても気があるのだろうと推測しながらも、長州の閨閥に入ることの不利益を説いている。

九月七日 土 微雨
大蔵大臣秘書官安倍午生面会を申込み来り、二師団案撤回に付き熱心に懇談し、五時頃より夜九時に至る。

遂に日記上にもこの問題が現れた。安倍は蔵相山本達雄の甥にあたるそうだ。そういえばこの人物、以前に寺内寿一の人となりについて宇都宮に聞きに来たことがあった。

九月十四日 土 晴夜に入り雨
本日は在宅謹慎の積りなりしも、新聞の号外にて昨夜乃木大将夫妻殉死の事を知り其邸に往弔す。(中略)大将の性格高きは今更の事にあらねども、実に斯くまでとは存ぜざりし。我眼識恥かしき次第なり。

長州閥を憎悪する宇都宮も、藩閥から超然としていた乃木希典に対してはそこそこ畏敬の気持ちを抱いていたようだが、殉死の報を聞き、乃木の偉大さを再認識している。

九月十八日 水 晴
大蔵大臣秘書官安倍午生来宅、晩餐を共にし例の二師団増設案に付き議論を上下す。新説なし。其大臣の為めに上原大臣の譲歩を工夫せんとするものなれども、此方にても一々説破之を却く。

再び安倍の訪問を受けた。この時点での宇都宮は勿論増師推進派。