読みながら書く『陸軍大将宇都宮太郎日記2』感想(9)

1916(大正5)年

九月四日 月 晴
 午前八時より騎兵第四連隊(長、中佐三好一)初度巡視(成績は不良の方にて、新連隊長の下に改善しつゝあれども、未だ著しき成果を収むる能はず、一般に弛緩、敬礼、練兵(徒歩)共に不良にして、乗馬も不良にして見劣すること甚しく、馬術も第七に劣ること遠きが如し。殊に二十名前后の花柳病者ありて、其十八、九人は入営后の発病者なりとは驚入るの外なきが、更に驚くべきは将校(師団、司令部共)等が之を平気に口にして、中隊長等が其責任を自覚しあらざるの事実に在り。

大阪の第4師団長に転任した宇都宮。初めて隷下騎兵聯隊を巡視をした。旭川の初巡視時も大いに不満を持ったが、大阪の緩み方は旭川どころではなかった。特に、土地柄もあるだろうが、騎兵の技量の差は歴然であった。

九月六日 水 晴
(病院は大阪としては矢張比較的緊りて見ゆ。唯だ入院患者中神経衰弱患者の多きはまだしも、曾て見たことは勿論聞たことも無きヒステリー患者と称するもの十人前后も入院しあるには、地方の風尚思ひやられて情け無く感ぜらる。真に大奮闘を要するは此風尚に向てなりとの信念益々加はる)。

ジョージ・パットンならぶん殴ってるところだろう。

十月八日 日 晴
 本日、寺内内閣任命せらる。
 総理寺内正毅(大蔵、外務兼任、外務は現駐露大使本野一郎なりと云ふ)、内務後藤新平、陸海軍は留任にて、陸軍は大島健一海軍は加藤友三郎逓信田健二郎、文部岡田良平、農商務仲小路廉、司法松室致。
 大正以来の隠謀毒手、終に此までは成功せしが、今后果して善政能く逆取し順守し得るや否や。山県等官僚の徒、口を開けば忠君と言ひ、常に忠義の仮面を被て敢て不臣の行為を為す、奸悪悪むべきなり。

辞任に際し大隈重信加藤高明を後任に推薦した。しかし元老や西園寺の介入で寺内に大命が下った。陸相島健一、次官山田隆一(長州)は留任した。新聞はこの内閣を「人材払底内閣」と呼んだ。

十月十七日 火 晴
 今朝鼠賊玄関の外套(マントウ)を持去る。

クライムシティ・OSAKA

十二月一日 金 晴
 午前八時より歩第八連隊初年兵入営の状況を視る(北海道に比し、一、見送人非常に多く二千人以上もありたらんか。二、壮丁の体格劣り九分九厘まで顔色蒼白。三、壮丁の服装上等なること甚しく、十の八、九までは絹布の羽織袴にて一見富豪の子息の如くなるには驚入たり、蓋し中には借物もあるなるべく、土地習俗の反映と謂ふべき乎。四、壮丁に軍服を新調着用しあるは誠に喜ぶべし、但し其数は尚僅少なるを免れず。五、婦人の見送人亦た少からず)。

初年兵入営の様子を視察し、旭川と較べてその贅沢さに土地柄を感じている。

十二月三十一日 日 晴
 徳馬、鶴彦教育の為め、松田幼年学校長(元武、同郷人)先般来心配の結果、同少佐、学校の生徒監歩中尉番行善(岡山の人)、歩三七連隊付歩兵中尉土橋勇逸(同郷人)の両人を伴ひ本日午前来訪。寿満子、徳馬、鶴彦も面会、土橋中尉は算術、番中尉は読書、作文等を受持教育し呉るることとなり大に仕合なり。

この家庭教師の事は土橋の回想録にも出てくる。


以上で大正5年分終了と共に第2巻も終了です。第3巻は来月には購入して、春にはレビューするつもりです。