宇都宮太郎日記

3.1事件に合わせて朝日新聞が大々的に取り上げた、宇都宮太郎大将日記の第1弾。実は連休には読了しており、やや時期を逸してしまったが、付箋を頼りに改めて読み直し、気になった箇所を取り上げていく。
まず全体の感想から言うと、非常に面白かった。値段なりの価値は十分あったと思う。宇都宮家に関して言うと、とにかく人の出入りの多い家だなという印象。若い頃から面倒見が良く、佐賀系の親分とされるのもむべなるかなと思う。

1900(明治三三)年
二月十八日 日 雨
 午后三時過の汽車にて大磯に至り、伊瀬知少将を訪ひ、此夜は旅館石井に一泊す。此行の目的は、一には少将の病気を見舞ひ、一には起高作戦の第一着手を為したるなり。蓋し露国との大決戦を目前に控へたる帝国の参謀総長としては、諸将官に勝るものなく、国家の為め是非共之を起さざる可らざることを説き、其方法としては、(1)政変の際高島を陸軍大臣と為し、現役に復せしめ、大臣の席を他に譲り自らは参謀総長に転じて終身之に拠るの決心を為さしむること。(2)は大山現総長をして、自ら高島を薦めて辞職せしむること。
 此二案中(2)を最良と為す。これ政変起るも此次の内閣を組織するものは伊藤か否らざるも之を同臭味にして、自由党とは必ず提携か連立なるべく、然る時には桂は何れにしても依然として其位置に留まるべく、高島の容れられんことは殆ど期す可らず。又た進歩党との連合も、遠き未来は知らず、当分は出来る望なし。要するに、自由側にせよ進歩側にせよ高島の手腕は其畏憚する所たるを以て、之を迎へて内閣の一椅を与へんことは当分の情況に於ては決して之無るべし。然るに時機々々と云ひ居る時は、歳月は流るるが如く、高島は軍人よりも忘れられ、世人よりも全く予備将官として谷や曽我と同視せらるるが如き境涯に陥り、現役に復することは愈々益々困難となるの恐あり。故に単刀直入(1)によるを尤も得策なりと信ず。而して之れも決行は此際を以て尤も適合と為す。これ当の競争者たる山県は現に総理大臣たり、桂は陸軍大臣たり、児玉の如き未だ競争者として数ふるには足らざれども、これも今日は台湾総督を得居る故、此等の人が猿臂を総長の椅子に延ばさんことは寧ろ今日を不便とす故に、大山にして納得して自ら退き代りに高島を薦んか、彼等は勿論内心には反対なるべきも、西郷、樺山、山本等閣臣同心協力其位置を賭しても之を成さんとの決心さへ為さば、為し得られざるにあらざるを確信す。之れが為めに第一に西郷を説き、之をして大山を納得せしめ、且つ山県等に大山と与々相談せしめざる可らず。西郷を説くには野津を以てし、野津を動かすには伊瀬知其人を煩はさざる可らず。而して此内決心一旦成るや迅雷耳を掩ふに暇あらざる如く決行するを要す。然らざれば桂、寺内を中心とし陸軍省の岡部、宇佐川等及び、参謀本部の田村、福島等より連合反対運動も起るべく、伊藤を経て聖意等の反対運動も起るべければなり。
 右の要旨を敷衍反覆して伊瀬知に説きしに、同人も固より大々の賛成にて、病気今少し快復せば三月下旬頃帰京大に為すあるべきを諾せり。

<注釈>
・伊瀬知というのは鹿児島出身の伊瀬知好成少将のことである。この時点での職は近衛歩兵旅団長。この年の4月に中将に進級して第6師団長になる。宇都宮とはかなり親しい模様。

・起高作戦というのは、高島鞆之助参謀総長に据えるための運動を指している。ときの総長は宇都宮の書いている通り大山巖。しかし宇都宮はこの大山を対露戦の総長には不足とし、同じ薩摩の高島を代りに据えようと考えている。高島は大山の2歳下で黒木と同い年。陸軍大臣や台湾総督などの顕職を歴任した大物ではあるが、参謀本部には一度の勤めていない。それにしても高島の何が、宇都宮をここまで引き付けたのだろうか。

・高島総長実現の道筋として、宇都宮は2案挙げている。第1は政変に際して高島を現役に復せしめ、陸軍大臣とし、その後陸相の権限で参謀総長に横滑りするという案。しかしこの案は不確定要素が多く、又政変を待っていては、時間はどんどん過ぎ、高島は谷干城曽我祐準のように世間からも軍人からも忘れ去られててしまう、としている。第2の案は大山に禅譲させるというもので、そのためにはまず伊瀬知が野津を説得し、野津から西郷従道、西郷から大山と、話を持っていくというもの。場合によっては樺山資紀山本権兵衛といった他の薩摩の重鎮まで動員するという案で、宇都宮はこちらをベターと考えている。

・この作戦がばれれば必ず邪魔をしてくる勢力として、宇都宮は、山縣首相、陸相寺内教育総監、宇佐川一正軍事課長、岡部政蔵高級副官(以上長州)、田村怡与造第一部長、福島安正第二部長といった名前を挙げ、警戒している。また台湾総督の児玉源太郎に関しても、将来ライバルになると目している。




二月二十日 火 晴
 役所にて上原勇作と高島を起すの必要を談じ、伊地知幸介を召還するの得策なることを談として語る。但し起高の決心は未だ本気には語らず。
 田村に武藤信義採用のことを謀りしに、同人も同意に付き其旨本人に通ず。この後参本出仕となる。

<注釈>
上原は当然ならが同腹の士であるが、この時点ではまだ具体的な話はしていない模様。イギリス駐在の伊地知幸介は、呼び戻して仲間にしようという腹だろう。この年帰国して第一部長となる。

武藤は前年度陸大を首席で卒業した佐賀の後進。後に元帥陸軍大将。




四月二十五日 水 雨
 此日予報の如く更迭あり。大迫次長は第七師団長に転出、寺内中将入て之に代はり、川上系の人は多くは敬遠若くは左遷せられ、長州派を以て陸軍の要部を専占す。是に於て政海に於けるが如く、陸軍に於ても薩人は亦た長人の圧倒する所と為れり。薩長の消長は強て問ふ所にあらざるも、陸軍の要部に非戦主義者等の跋扈するは実に嘆ずべきなり。軍備拡張の大精神は誰か能く之を支持する者ぞ。
 此変動の為め、知人中には伊瀬知少将中将に、伊地知幸介、季清、松永正敏、福島安正等少将に進めり。

<注釈>
・参謀次長が薩摩の大迫尚敏から寺内に替わり、省部の要職は長州派に独占されたと嘆いている。総長は依然大山なのだが、これは薩派としてカウントされていない模様。

・長人たち(この場合大山、福島、田村も含)がよくないのは、派閥による勢力争い的な考えからではなく、彼等が非戦主義者であるからだと書いている。この点はポイント。

・季清は伊知知季清(薩摩)、松永正敏は熊本。




四月三十日 月 晴
 安次郎、福沢へ通学に付ては之を預かることとなり、又た金吾の学資も田村総務部長出し渋ぶるの状あるを以て余は断然之を辞するの決心を定め、叔母上より安次郎預かり呉れとの内談ありしを幸、金吾と安次郎とを交換せんことに相談纏まり、即ち金吾は本日を以て薬王寺前町の寄宿を辞し仲ノ町に寓することとなる。

<注釈>
・金吾というのは、後に李王の侍従武官となる金応善のこと。彼は宇都宮金吾という名前で、宇都宮の弟として育まれ、陸士を出て、最終的には少将になっている。宇都宮と朝鮮との縁はこのころから既に濃密である。

・宇都宮は明白に田村を嫌っている。




七月十一日 水 曇
 午后、総長、次長、総務部長、陸軍大臣及び余等四人と藤井、与倉の両大尉(両人は道路説明の為め)列席会議あり。次長より、大体は余の答案を基礎とし、集議の上所要の修正を加へ浄写取纏むべきを四人に命ぜらる。此時に於ける余が心中の愉快は生来最大なるものの一なりき。夫れより総務部長田村少将を座長として四人集議、随分八釜布非難攻撃を加へたるの人無きにあらざりしも、帰する所言句の加除修正位に止り、大体は遂に動かざりき。午后九時過に至り浄写脱稿す。

<注釈>
・総長は大山、次長は寺内、総務部長は田村、陸相は桂。余等四人とは、宇都宮の外に明石元二郎、依田広太郎、鋳方徳蔵で、藤井は藤井幸槌(後に宇都宮と縁の深い土橋勇逸の舅となる)、与倉は熊本城で戦死した与倉友実の養嗣子与倉喜平。議題は義和団に包囲された北京への出師準備。

・宇都宮の案にやかましく非難を加えたのは恐らく田村。宇都宮が田村を嫌う理由のひとつは、川上操六亡き後の田村の身の処し方に求められると思う。田村は川上の薫陶を受けた川上チルドレンの一人であり、宇都宮や前述の伊地知、上原も同様である。中でも田村は格別の寵愛を受けている。川上は山縣相手でも一歩も譲ることのなかった人物であり、その影響で川上系は反長州的態度であった。然るに川上が途半ばで倒れると、田村はあっさり山縣に接近した。田村は自信家である。彼が山縣に接近したのは単なる自己の立身出世のためではなく、自らの力を存分に振るいたいという考えからであると思う。しかし、宇都宮にはその変わり身がどうにも気に喰わなかったのではないだろうか。また田村は対露戦に関して、消極的であった。その点もまた宇都宮には不満であったであろう。

・そもそも宇都宮が高島鞆之助の起用に奔走するなどしている原因も、川上の急死にある。彼が生きていれば当然、総長の座にあったであろうし、そうすれば宇都宮も代わりの総長を探して走り回る必要など全く無かったであろう。