2・26事件特集(1)上原勇作と田中義一

今年は事件から丁度70年ということで、事件までの流れを陸軍を中心にざっくりと振り返ってみたいと思います。

第1回は大正末の陸軍を二分した上原勇作田中義一についてです。

薩摩の総帥上原と長州の秘蔵っ子田中、その対立は宿命づけられていたと言えなくも無いですが、実際には二人はある時期まではかなり親密な間柄でした。田中は、異常なまでに長州とその同調者で周りを固めた寺内正毅と比べると、ずっと長閥意識は薄く、上原が参謀総長、田中が次長の時代にはタッグを組んで寺内の大陸政策に反対したりしていました。その二人が反目しあう切欠となったのがシベリア撤兵問題です。田中は元々、積極的な大陸政策を持つ上原派と共に、この出兵を旗を振って推し進めた一人でした。しかし原内閣に陸相として入閣すると態度を180度転換して、撤兵に賛成します。この辺は良くも悪くもリアリストで政治家である田中らしい点ですが、当然総長上原はこの変節に猛然と反発しました。しかし田中は屈せず、原敬の応援を得て元老山縣有朋を説得。さらにこれを機会に、統帥権を盾に政府に反抗する参謀本部の抜本的改革にまで乗り出そうとします。

余談になりますが、このころ高橋是清参謀本部廃止論をいきなりぶち上げ、原たちを驚かせました。原はそのラディカルさに、例え私論としてであっても、絶対に発表しないように高橋に釘を刺しました。原と田中はこの高橋の思いつきについて話し合い、”上原嫌いの長岡外史が、参謀本部をなくせば航空に予算を振り向けられるという考えから、こういったことを高橋に吹き込んだのではないか”というようなことを話し合っています。その席で田中は、”高橋のような論は困るが、いずれ参謀本部陸軍省の中に移すぐらいにはしたい”と原に言ったそうです。

田中と上原の対立はウラジオストック撤兵問題で最高潮に達し、それまで何度も辞表をちらつかせていた田中は遂にそのカードを切ります。彼は自分が辞めることでまた、上原も辞めざるを得ない立場に追い込もうとしたのです。山縣も田中の辞任を了承し、後任についても田中に一存することで異存は無いと原に伝えました。田中は自らの後任には同期の山梨半造を推薦。参謀総長の後任には、”参謀本部が将来権力を振り回すといけないから、平凡な人物を採用したい”として教育総監秋山好古を据えるつもりであることを原に伝え、その同意を得ています。こうして田中は辞職しましたが、上原の総長更迭に関しては山縣の反対などもあり結局うやむやになりました。

原、山縣と関係の深い二人の死を挟んで、田中は再び山本権兵衛内閣で陸相に就任します。山本”震災”内閣での田中の最初の仕事は、甘粕事件の責を問うて関東戒厳司令官福田雅太郎を解任することでした。福田は上原派の有力な将星であり、田中とも若い頃から非常に親しい間柄でした。福田自身はこの処置にさして不満というわけではありませんでしたが、福田だけが辞めさせられ、陸相がその職にとどまることに、憤懣を抱いた人々がいたのも確かです。

虎ノ門事件で山本内閣が総辞職。組閣の大命は清浦奎吾子爵に降りました。この清浦内閣の陸相選考を巡って二人の対立は遂に修復不能となります。大命を受けた清浦に対し、田中は次官の宇垣一成を推薦。一方上原も清浦と同じ熊本の石光真臣中将(真清の実弟)を使者に立て、福田を推薦します。この上原の動きを探知した田中は、参謀総長河合操教育総監大庭二郎を呼び寄せ三長官会議を開き、また東京警備司令官山梨半造、軍事参議官尾野実信、同町田経宇をも集めて会議し、第一候補福田、第二候補尾野、第三候補宇垣として、清浦にはこの三人の中から選ぶように申し述べました。このうち尾野は本人にその意思が無くカモフラージュ候補であり、田中の本命は当然宇垣でした。そのため彼はこの裏で貴族院研究会に働きかけ、福田反対運動を起こさせています。理由は、”甘粕事件により福田は全国の社会主義者無政府主義者に狙われる身である(実際に狙撃を受けている)。そのような人物を陸相にして陛下に万が一のことがあったら”というものでした。上原派の町田や石光などの反対意見もありましたが、結局清浦は宇垣に陸相就任を要請。宇垣はこれを受諾します。すべてが終わってからこの経緯を聞いた上原は激怒、田中に対し”私的交際はとにかく、公人としての関係は打ち切りたい”との絶縁宣言を投げつけました。福田もまたこの田中の行動に怒り心頭で、”おれは徹頭徹尾田中のやることには反対してやる。(田中の政友会に対して)近く新政党(民政党)ができるというから、そちらにいくつもりだ”とまで揚言したそうです。

とにかくこうして、かつての大陸問題の同志は袂を分かち、山縣亡き後の陸軍に、再び不吉な派閥争いの影がちらつき始めました。そんな中、宇垣一成が登場します。