裁かれる昭和<第一回>満蒙に血の雨を

新聞記者の書く歴史は面白い。面白いけど、その書くことが正しいとは限らない。それは当たり前の話で、彼らはそれぞれに御贔屓筋を持っていて、そこから情報を得ているわけだから。情報は偏るし結論も間違う。しかし、幸い平成の世に生きる吾々は、多くの資料を付き合わせることができる。だから、記者の書いた暴露ものだからといって敬遠する必要は全然ない。面白く読んで取捨選択すればよい。
『裁かれる昭和』は月刊現代の1992年9月〜12月号に連載されたもので、執筆者は報知新聞の記者だった佐野増彦氏。第一回では清浦内閣の陸相を巡る田中義一と上原勇作の対立から鈴木壮六の後任参謀総長の座を巡る上原と宇垣一成の対立、更には三月事件や満洲事変について語っている。氏は親宇垣。

宇垣の偉さ

僕はある時、香港占領地総督府参謀長の菅波一郎少将(28期)、この人は二・二六事件の菅波三郎(大尉・37期)の兄なんですが、この人に聞いたことがある。
「閣下、みんな宇垣さんのことを偉い、偉いというが、いったいどこが偉いんですか」
菅波はしばらく考えていて、
「いやわからない。だけど宇垣が陸相になった時は、参謀本部陸軍省も、まるで電気が通ったように統制がとれる。やっぱり、偉いんだろうな・・・・」
宇垣が陸相杉山元(12期)が次官の時、ある案を杉山が報告にいったことがある。宇垣は、はじめのうちは椅子に座って杉山の報告を聞いていたが、途中から席を立って部屋の中を歩きだした。杉山は、
「では、後で再び報告に上がります」
といって、部屋を辞去しようとしたら、宇垣は「そのままやれ」です。
杉山は、誰も座っていない椅子に向かって報告を続けたという逸話が残っている。当時の宇垣は完全に軍を統制しておりました。次官や局長さえ、宇垣の前ではまるで子供扱い、といわれたものです。

新聞記者の色分け

僕は昭和五年に報知新聞に入社して、政治部に配属されずっと陸軍の担当だったんです。途中、昭和十七年から三年間、磯谷廉介が香港占領地総督を務めた間、磯谷に請われて総督府の新聞班長(スポークスマン)として社を離れたことはありましたが、それ以外はずっと陸軍記者です。
陸軍記者としての僕は統制派、なかでも宇垣系と見られていました。実際、宇垣とは懇意にしてもらいました。畑俊六(12期)とも親しく付き合いましたが、皇道派の磯谷とも親しかった。両方の派閥と付き合っていたわけです。
(中略)
話を戻して、当時の新聞記者仲間でいえば、同盟通信の及川六三四君は統制派、住谷金吉君は皇道派毎日新聞では岡田益吉君は荒木貞夫皇道派、秋定鶴造君は統制派。読売の神田孝一君は皇道派でした。報知新聞でも百武末義君は真崎甚三郎と同郷の関係で皇道派一辺倒でしたし、松山幸逸君は統制派。朝日の高宮太平君は統制派。余談ですが、この人の書いているものは、たいてい杉山元から取材しており正確です。

磯谷を皇道派とするのは明らかに変なわけだが。

満洲事変

誤解を恐れずに言うなら、僕は満洲事変は仕方がなかったと思っています。張作霖爆殺事件後の満州は、予想したことではあったが、排日の空気は悪化、一触即発の状況だった。一度、ガス抜きをやらなければ収まらない状態でした。
事変後の処置を誤ったことが大問題です。関東軍は一切手を引き、政治家、つまり政府に一任すべきだった。関東軍が中心になって、満州国をつくったことは大失敗でした。
政友会の犬養毅総裁の考えは、満洲の主権は中国にあることを認め、蒋介石と協議して特別な政権を作るべきだ
というものです。さすが孫文以来の中国通の卓見です。それなら中国も承知したでしょうし、日本と中国は了解しあえたと思うんです。

都合の良すぎる意見だが、氏は親永田でもあるので、満洲事変までは否定できない。