続々・三浦観樹回想記

原敬のこと
およそ英雄豪傑が指弾されるのは女と金のことだ。ところが原はこの点が非常に綺麗であった。二個師団問題で西園寺内閣が倒れ、政友会も大きく議席を失ったが、乃公は、
「君には前に随分家付き小舅が多いようだといったことがあるが、これが掃除できたと思えばいいじゃないか」
と慰めてやった。
原が内閣を引き受け、組閣準備に追われていたとき、原は乃公のところへは一切顔を出さなかった。それを指して不義理だと言う者もあったが、乃公は逆にそこが原の偉いところだと、言ってやった。
原が刺されたことは、元田肇の電話で知った。乃公が傷は何処だと聞くと、腹だという。それを聞いた乃公は
「腹なら助かる。大丈夫、死にはせぬぜ。原にはいい修行だ。きっと偉いものになるぞ」
とあべこべに原のために喜んだが、豈に計らんや、乃公が東京駅に駆けつけると、原は冷たい躯となって、運び出されるところであった。

日独戦争
日本参戦の報を聞いて驚いて大隈の所を訪ねたが、この男では土台話にならない。そこで山縣を訪ねて、
「君のような用心深い人物が付いているから大丈夫と思っていたのに、これはどうしたことか。イギリスに請求されたからといってなんでそう事を急ぐ必要があるのか。大体、大戦参戦を名目に二個師団を増設するなんぞ、敵本主義じゃないか」
と言うと、山縣は
「それはそうかも知れぬ。君は何か別の考えを持っているようだが」
と言う。そこで
「それは大いにある。ドイツ大使を訪問して、日本は日英同同盟の関係上、膠州湾を放っておくわけにはいかぬ。そこで少しの間、日本に膠州湾を任せてくれないか?と説得し、膠州湾を封鎖すれば、何もわざわざ兵を出して戦端を開く必要などない」
と言うと、山縣は
「それは名案だ。惜しいことをした」
と言った。とにかく日本はこんなにもせっついて参戦する必要はなかった。加藤高明など、戦争は二ヶ月ほどで終わると考えていたらしい。大隈もこの加藤の考えに影響されていた。結局加藤の外交姿勢は、大国の尻馬に乗っていさえすれば良いという、日本外交の伝統的考えに基づいていた。

寺内内閣倒閣事情
外交調査会をつくって、対支政策を刷新するという話になった。そこで乃公は、支那の諸悪の根源は督軍制度だ。あれをぶっつぶして師団制にしないとだめだ。外務省が出来ないなら乃公が行ってやるといったが、寺内はうんうん煮え切らない返事ばかりだ。そこで乃公は寺内に見切りをつけ、山縣の所へ行くと、
「寺内という男は、どうも思っていたより人間が小さい。それに恐ろしく猜疑心が強い、決断力の乏しい男だ。駄目だぜあれは」と言うと、山縣も
「あれはあんなもんだよ。日露戦争のとき、あれが陸軍大臣でよかった。もし参謀総長なら、大負けするところだった
と言う。間もなく寺内は体を悪くし、米騒動もあって退陣した。

参謀本部廃止問題
原内閣のとき、乃公は原に責任内閣制と参謀本部の廃止の二つをやれと勧告した。陸相田中義一がやってきて、今すぐに参本を閉じるのは難しいので、実質的廃止に持っていけば良いではないかという。そこでどうするのかと聞くと、
上原が辞める気になっているので、後釜にはごくごく従順な人を据えれば、参謀総長は名前のみで、参本は骨抜きになるでしょう」
と言う。
「それはまあそれでも良いが、後任は誰にするつもりじゃ」
と聞くと、
秋山好古のつもりです」
との答え。
「それなら申し分なしじゃ。あれなら右向けと言えば、右を向いているから、世話はない
ということで田中は帰ったが、結局上原は辞めず、参本はその後も存続した。

三党首会談
憲法が制定されて30年。とっくに憲政が確立しておらなければいけないのに、現実は逆にどんどん憲法から遠ざかっている。山本内閣が倒れたが、その後はまた清浦の変態内閣だ。そこで乃公は、もはや猶予は許されないと考え、三党の党首に会談を呼びかけた。高橋、犬養は快諾したが、加藤だけはぐずぐず言って、中々了承しない。18日は拠所ない用事があるなどと言うので、久原を呼んで、何が何でも来るようにと伝えろと言った。加藤は
「日時も許さぬとはとんだ圧制だ。しかし年寄りの言うことだからしょうがない」
とぶつくさ言いながら、渋々やってきた。三人が集まると、乃公は憲政擁護の必要性を説いた。いずれも異議無く、三派連合はこうして成った。加藤もすっかり安心したのか、いろいろ喋って腰を上げない。用事があるならさっさと帰れとも言えないので、
「乃公はこれで失礼するよ。後は君らでやれ」
と言って立った。



まだ続く