杉田一次「情報なき戦争指導」を読む(その1)

筆者の経歴はここ 参本の組織に関してはここ

    1−1 磯谷廉介第二部長時代
  • 磯谷少将支那通で小事に拘らない支那の大人風
  • 部長も両課長も米英の動向に大なる関心無し。
  • 第四課(欧米課)第一班(南北アメリカ担当)の意見は軽視されがちであった。
  • 第二部各班は参謀3名、勤務将校2名及び事務官より成り、人員は第二部全体でも100名に達しなかった。
  • 支那課やロシア班に比べ欧米班は比較的閑散としており、欧米班の1年かの旅費は僅か300円であった。
  • 陸軍の閑院総長宮に対抗して海軍も伏見宮を、東郷元帥を使ってまで、軍令部長に担ぎ出した。伏見宮は常に海軍強硬派の側にあった。
  • 満洲国建国で多くの特務機関が新設された。
    満洲事変以前からあった特務機関
    哈爾賓、奉天満洲
    事変後に設けられた機関
    チチハルハイラル、黒河、承徳、多倫、密山、張家口、西ウジムチン
    新設された領事館
    ウラジオストックハバロフスクノボシビルスク、チタ、ブラゴヴェシチェンクス、オデッサ
    参本直轄の新機関
    ベルリン謀略機関、パリ謀略機関、イラン公使館附武官室
  • 小畑敏四郎鈴木率道によって対ソ戦略に大修正が加えられ「まず満洲東方正面で攻勢作戦をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して進攻を予想するソ連軍を撃滅せんとする」という内線作戦が策定された。彼等はこの作戦を補完する為政略的に米英や支那との提携を考えていた。
  • ワシントン会議に関して、林陸相や岡田総理は強く条約継続を要望したが、大角海相はこれを拒否した。アメリ班長平田正判中佐(25期、中将)はワシントン会議脱退に反対し陸軍上層部に意見具申したが取り合ってもらえなかった。
  • 陸軍にあっても対米戦を考慮して大正末に前田正実大尉をフィリピンに3年間商人として潜入させたり、鈴木敬司大尉を昭和7年より3年間マニラに潜入させたりして情報を収集していた。
  • 海軍の対米作戦構想で重大な要素になったのは、我方の潜水艦を過大評価し、米海軍の潜水艦作戦を蔑視したことであった。軍縮会議において海軍は潜水艦の米英パリティを主張し、海軍作戦の勝利を潜水艦作戦に託していた。すなわち日本人のみが潜水艦乗りに適し、米人らには不適であるとする独善的観念に陥っていた。沢田参謀次長は「海軍が潜水艦作戦は独壇場だとさえ豪語していたことは、陸軍が米国の反撃を真剣に考えなかった一つの原因ともなった」と書いている。
  • この頃斉藤博大使がルーズベルトやハルに日米同盟を提案したが、天羽声明と近衛に不用意な発言でおじゃんになった。
  • 第一次大戦に従軍した陸軍将校
    ロシア軍大庭二郎、中島正武、石坂善次郎、高柳保太郎(以上少将)、福田喜助、荒木貞夫、坂部十寸穂、黒沢準、古谷清(以上中佐)、井染禄郎少佐、橋本虎之助、時乗寿、森田宣、三毛一夫、長谷部照吾、斎藤捨次郎、小畑敏四郎、黒木親慶山脇正隆桑木崇明安井藤治鈴木重康、武田額三(以上大尉)
    フランス軍小林順一郎四王天延孝(以上少佐)、酒井鎬次久納誠一(以上大尉)
    イタリア軍>小川恒三郎、飯田貞固(以上大尉)
    イギリス軍建川美次少佐、児玉友雄、谷寿夫本間雅晴前田利為(以上大尉)
    アメリカ軍>鷲津平大尉
    欧州駐在>渡辺寿少将、渡辺錠太郎大佐、森五六、山下奉文古荘幹郎松井命(以上大尉)


    1−2 岡村寧次第二部長時代
  • 岡村少将は名実共に支那通の第一人者で内外に友人多く、親近感の持てる立派な将軍であった。
  • 欧米課長の神田正種大佐はロシア通で英米に関心は薄かった。支那課長の喜多誠一大佐支那勤務が長く支那の大人然たるところがあった。
  • 広東特務機関長和知鷹二中佐が陳済棠、李済仁、白崇禧ら反蒋勢力に働きかけていた。彼等は知日派胡漢民の支持を受けていた。和知は関東軍との折衝により満洲国より三八式歩兵銃、弾薬、山砲、戦闘機を引き出し、彼ら西南軍閥に譲渡した。
  • ロンドン条約廃棄について陸軍部内は無関心であった。
  • 二・二六事件に断乎たる処置を主張したのは全師団中第二師団長の梅津美治郎中将(15期、大将)のみで、多くは首鼠両端を持していた。
  • ゾルゲはこの事件の分析でドイツ大使館からの信頼を得た。

    1−3 渡久雄第二部長時代
  • 渡少将は部内きっての英米通であったが、着任当初より病気がちで多くの場合、欧米課長の笠原幸雄大佐が部長代行を務めていた。
  • 班長は木村松治郎中佐(27期、中将)で、「対ソ戦法」の赤本に倣って「対米戦法」を起草していた。
  • 第二部担当の「情勢判断」が第一部の戦争指導課に移された。
  • 対ソ情報収集のために投入された武官
    ソ連 川俣雄人中佐
    在イラン 福地春男中佐
    在トルコ 磯村武亮中佐
    オーストリア 西郷従吾大尉
    ラトビアエストニアリトアニア 小野寺信中佐
    ポーランド 沢田茂少将
    フィンランド 加藤義秀少佐
    アフガニスタン 宮崎義一少佐
    在ドイツ 大島浩少将
    満洲 今村均少将
    ※アフガンの宮崎武官は昭和12年11月国外追放された。
  • アメリカ議会はタイデングーマグフダイ法案によって1946年には比島の完全独立を認める事を可決した。比大統領予定のケソンはマッカーサーを軍事顧問団長として招聘した。
  • 海軍では在外武官室に優秀な通信下士官を配置していたが陸軍にあってはその考慮がなく武官を配置すればそれで事足りると考えていた。
  • 従来の国防方針、用兵綱領、年度計画などに目を通し、そこに全体を統御する戦争計画(国防国策)が無いことに気付いた石原莞爾は「まず対ソ軍備に重点を向け北方の脅威を排除し、中国との破局を防止し極力米英との和協を図り、この間満洲国の育成を図らねばならぬ」という考えで海軍と折衝したが、この思想は海軍の受け容れるところとならず、彼等は国防国策を論じるより寧ろ、国際情勢の大変化と軍縮条約の失効の点から国防方針の第三次改訂を優先すべきと譲らなかった。
  • 第三艦隊司令長官の及川古志郎中将がこのとき、対米英との衝突を避けるべく陸海の仮想敵国をソ連に統一することを中央部に意見上申したが、海軍次官、軍令部次長連名で「国防を先ず陸然る後海とするが如きは誤れるも甚だし」という返事であった。
  • 新たに策定された国防方針は仮想敵国に米、ソ、中に英国を加えたものであった。
  • 国防方針の策定と同時に石原が進めていた国防国策に関しては、陸軍の対ソ先決主義が海軍の容れるところとならず、海軍側は陸軍の「対ソ先決」と海軍の「北守南進」を組み合わせた国防大綱なるものを策定した。
  • 石原は国防国策の中で「米国に中立を維持させながら、東亜から欧州勢力を駆逐し、オーストラリア、ニュージーランドまで占領する」と書いていた。これは甚だ現実離れした案であって、石原もまた米国に全く無知であった。
  • ドイツは早くから有力な顧問団を支那に派遣して、その軍備の充実を図っていた。ドイツ式軍が第一次上海事変で日本軍相手に善戦した事から蒋介石はドイツへの信頼を高め、ゼークト大将を招聘した。ゼークトは「日本一国だけを敵として、その他の諸外国との親善政策をとり素質優秀な幹部を中核とした軍を養成すべき」と提言した。ゼークトが帰国した後はファルケンハウゼン中将が後を継ぎ、支那事変において国民党軍の作戦を支援した。ファルケンハウゼンは帰国する時「日本は広大な中国本土において終局的に敗北するだろう」と述べた。
  • 松本重治は改造に第二次上海事変は日独戦争という論文を出したが、その部分は削除された。
  • 海軍予備役大佐石丸藤太の「日米戦ふか」がイギリスで売り出され一大センセーションを巻き起こした。
  • 米軍は日本陸軍には概して敬意を払っていたが、日本海軍には警戒的であった。当時大尉だった筆者の月給は米軍伍長と同じ水準であった。

    2 本間雅晴第二部長時代
  • 本間少将は英国通で語学や文学に優れ世界情勢にも通じ情報部長に最適であったが、ソ連支那関係者から親英米派と見做されていた。
  • 欧米課長に木村中佐を昇格させずフランス畑の芳仲和太郎中佐(27期、中将)を持ってきたところに欧州重視の思想が伺える。
  • 支那事変に関し、第二部では支那課長の永津佐比重大佐(23期、中将)が一撃論者であった。
  • 新任の本間はそれを容認した。
  • ルーズベルトの所謂隔離演説があった。しかし彼の演説は米国を戦争に巻き込むものとして一般的には不評であった。
  • パネイ号事件は斎藤大使の適切な処理のお蔭で何とか収まった。
  • 陸軍はドイツから重爆撃機を一機譲渡してもらおうと交渉していたが、交渉は捗らなかった。在イタリア武官有末精三大佐は我軍の窮状を察し、イタリア政府にかけあってBR-26重爆撃機72機などを購入する事に成功した。
  • 臨時調査課長に就任した高木惣吉大佐は、陸軍側から積極強硬派と見られていた。
  • 日本の米国軽視の風潮は、欧州重視の裏返しであった。
  • 本間は離任に際し「英米軽視の風潮を改め、ヒトラーの政策に巻き込まれないよう努めなければならない」と申し送り、欧米課長に辰巳栄一大佐を推薦した。


    3 樋口季一郎第二部長時代
  • 樋口少将ポーランド武官などを務めたソ連通で英米に対する理解は薄かった。
  • 近衛は、次女が細川護貞に嫁ぐその前夜の仮装パーティーヒトラーのコスプレをしていることから見ても、どちらかといえばヒトラーに好意的であったのではないか。
  • 白鳥はイタリアに赴任する際、近衛から「現地よりどしどし引っ張ってくれ」と激励されていた。
  • 当時の在欧州武官は、英国武官以外殆どアメリカに注意を払っていなかった。
  • 斎藤大使の死は米国民から非常に悲しまれた。
  • 斎藤大使の遺骸を運んできたアストリア号の歓迎パーティーでグルー大使に「日本海軍は本当のところ米国と戦争するつもりではありませんか」と聞かれた米内海相は「日本海軍に関する限り米国と戦争する気はまったくありません」と答えた。
  • 当時戦争指導課に在籍していた秩父宮殿下はしばしば英米班に来られて、英米の動向に多大な関心を寄せられた。
  • 陸大教官兼務であった筆者が学生に「支那の最大の援助国は誰か」と聞いたところ、英国、ソ連を挙げる者が多く、ドイツと答えた者は僅か2名、アメリカと答えた者はゼロであった。
  • 海軍が推し進めた海南島占領はいたく米英を刺激した。この島の占領に強く反対する汪兆銘政府の陳公博に対し、海軍の前田稔少将は「実は日本が米英と戦争する為にはどうしても海南島が必要なのだ」と頑張り通し同意を取り付けた。
  • この海南島占領は米内山本井上のトリオによって実行されたものであるが、戦後これらの提督に関する出版物でこのことを詳述しているものは殆ど無い。
  • 支那方面軍に渉外部が設けられ部長に英米通の広田豊大佐(27期、中将)が任じられたが、同大佐は幕僚陣より作戦妨害部長などと皮肉られた。
  • ノモンハン事件後の服部らの処分が軽かったのは、総務部長の神田少将自身が脛に傷(満洲事変のときの朝鮮軍独断越境)を持っていたからではないかと筆者は考えているが、私自身は必ずしも此意見には賛成しない。
  • ノモンハン事件後に参謀次長に就任した沢田中将は、謀略課長にポーランド武官の臼井茂樹大佐(31期、戦死して少将)を起用し、第八課は情報業務から離れ謀略方面に深入りしていった。
  • 編制動員課の棚橋茂雄大尉(40期、中佐)が大阪商人と結託し、支那事変解決の為米国より20億ドルの借款を受け得られるとして工作に乗り出した。相手はカリフォルニアの会社社長チャンドラーで、開戦間際まで行われた。英米班はこの工作に「実現の可能性は全然無く、我が国の弱みを米国に知らすに過ぎない」と強硬に反対していた。筆者はこれはCIAの謀略工作でなかったかと推測している。
  • 関東軍司令部は対ソ戦で善戦したフィンランド軍よりカイラス大佐及びライネ少佐を招聘して対ソ作戦研究に参与せしめた。これはフィンランド武官小野打寛大佐(33期、少将)の斡旋によるものであった。