イニシャルトーク「在ソ間言行録」

また秦先生ネタから入ります。グリフォンさんの所で紹介されていた新潮45の【特別読物】司馬さんと戦車(下)/秦郁彦を立ち読みしてきました。匿名人士を暴くのは私も大好きですし、その(旧軍方面の)第一人者たる秦先生には、尊敬措く能わざるところですが、ただこの文章は、結論も含めてあまり心に響くものでは無かったですね。私が元のネタにあまり関心を持っていないせいもあるでしょうが。そんな中ひとつ面白かったのは、雑誌『正論』に寄せられたこの問題に関する読者投稿のひとつで41歳不動産業の男性の意見。立ち読みなのでうろ覚えですが「本土決戦で戦車隊の前を遮るものはひき殺していくのが当然だが、平和ボケと戦後民主主義に毒されたヒューマニズムの司馬さんにはたえられなかったのだろう」みたいな。最高ですね。
ところで、以前から取り上げている伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官美山要蔵の昭和』にも、美山がシベリアから帰国したかつての同僚たちから聞き取った主要幹部の在ソ間言行録(ほとんどイニシャル)というものが載っています。彼の日記原本には後から鉛筆書きで、一人ひとりの実名が書き加えられているそうですから、これから私がやる作業は道化のようなものですが、まあ気にしない。

T大佐・・・彼は日本の戦争指導の機構等全部ブチマケだ。為にソ連中央部は、この重要資料に対する感謝のために、彼を処罰せず、中央部命令で早く日本に帰した。彼は瀬島〔龍三〕が戦前身分を秘して、シベリヤをクリエル〔クーリー・苦力=荷物運びの下層労働者〕として往復した事も漏らした。

これは終戦時は朝鮮軍参謀だった37期の種村佐孝大佐だろう。

I少将・・・全部漏らした。彼は早く帰った。受刑なし。

二人目にしていきなり自信なし。第3軍参謀長の池谷半二郎少将(33期)かな。同期の松村知勝が、彼はソ連駐在経験があるのに、無罪になって早く帰国したと書いていた。早くといっても昭和25年だが。

S中佐・・・極東国際軍事裁判のため日本に来た時、哈府出発にあたり民主グループに入れてくれと頼んだ。裁判から帰って、彼は「大いに軍国主義をたたいて来た」と報告した。為に右翼からやられた。彼はT中佐からスパイになるように強要された。

これは伊藤氏も書いているが、瀬島龍三中佐。文中のTは不明。

M大佐・・・二刀流を使ったが、最後は反ソに徹底した。彼は最も多く戦犯の証人となった。末広〔不詳〕のため不利の証言をした。

Y中佐・・・不利の証言をした。

役職も無いのに特定なんかできるかっちゅうねん。ただ末広というのは第3方面軍高級参謀の末広勇大佐だろう。

M参謀・・・機動旅団が作戦謀略部隊であると証言し、為に三十九人の戦犯を出した。

これも特定不能。機動旅団の参謀に森田という少佐がいるが・・・

K海軍少将・・・皆シヤベッタ。為に早く帰った。

海軍はわからん。

S少将・・・綏芬河〔黒龍省牡丹江市の県級市で、中露国境に位置する東清鉄道ルートの貿易都市〕の特務機関長でありながら、K海軍少将同様早く帰れた。

初めて役職が書いてある人が出てきたけど、わからんw誰か調べとくれ。須見新一郎大佐がこの職に就いていたことがあるが、そんなもんノモンハン事件の前だからね。

M少将・・・ソ運側のデッチ上げ偽情報を全部肯定した。

草場中将、瀬島中佐と一緒に東京裁判の証人として東京に連行された関東軍参謀副長の松村知勝*1がイニシャルと階級は合致するが、彼も昭和31年まで抑留されているし、違うような気がする。わからん。

A大佐・・・モスコーの監獄に居った。五五年一月突如哈府に移った。彼は少しも体力的に参っていなかった。一ヶ月居てモスコーに帰った。彼の滞哈中ある日、薬袋〔陸士五十期〕が町病院に行くと言って、帰って来てから言うことには、薬袋は哈府でAに会はされ、Aから対ソ謀略のため、日本に帰って在日米部隊の諜報員になるよう勧められたとの事である。

天野〔勇〕大佐・・・彼は白系ロシヤ人は時分が責任者として使ったので、白系ロシヤ人に責任はない、と証言して、白系ロシヤ人から感謝と賞讃を得た。

情報関係でA大佐というと関東軍情報課長の浅田三郎だろうか。情報関係者はソ連側から酷く敵視されていた。薬袋というのは薬袋宗直少佐。天野大佐は橋本欣五郎の腹心の一人。侠気あふれる態度が災いしてか、生きて日本に帰ることはできなかった。

O少将・・・拷問に耐えず、遂に発狂した。

O少将(別人)・・・被服を倉庫から勝手に交換したため非難された。

憲兵少佐・・・彼は北支では弾丸雨飛の中で非常に勇敢であったに拘らず、ソ連の取調べに対しては全然だめで、全部シャベツタ。

清水規矩中将〔陸士二十三期・陸大、侍従武官、教育総監本部長、南方軍総参謀長、第五軍(東満州)司令官を歴任〕、安部孝一中将、久保宗次少将、塩沢清宣中将〔陸士二十六期・陸大、関東軍参謀、興亜院華北連絡部長官、北京駐在特命全権公使を歴任〕等は立派であった。清水、安部は特に光っていた。

これも特定できず。O少将は3人はいるだろう。例のインパール作戦に反対して関東軍に飛ばされてきた小畑信良少将*2が、どちらかに入っているかは気になるところ。上はまず違うだろうと思うが。清水*3。安部は107師団長として8月末まで戦闘を続けた人。

H中将談(昭和三十二年二月五日)
−−自分は抑留中、厳重な取調べを受けた。ソ連調査官は自分の陳述が不十分であると、大いに憤って多数の資料を持ち出して責め上げた。その資料は満州事変当時以来の在モスコー日本大使館陸軍省参謀本部間、或は在欧日本大使館附武官との間の往復電報のコピーであった。尚クリエルの携帯文書の写真さえもがあった。
それらの資料は悉く膨大な冊子に綴じてあった。大使館附武官の電報が盗られていたのは、補佐官が使っていた秘書から得たものと惟われる。クリエルの書類も厳重な警戒にも拘らず、睡眠時にやられたものであろう。
尚驚くべきことは、日本大使館員の中に、ソ連のスパイになっていた者があることであり、同大使館員は、日本大使館で使っていたスパイに対する金銭の受領証のコピーをソ連側に手交していた。
これを要するに、長い間に亘るこれらの資料を、何時有効に使えるかも判らないのに、よく整理して、保存してあったソ連の根強い、ばかでかい努力、想像を絶する辛抱に我々は思いを致さねばならない。これらの事を思い起こして、我国の防諜は完全なりと自負していたのは真にマスターベーションに過ぎなかったのは悲しいことであった。

これは耳の大きい関東軍総参謀長*4で鉄板。クーリエの書類もやられていたという点で一番有名なのは、シベリア鉄道内で金子中佐が毒殺された一件だろう。なんでも畠山清行氏によれば、クーリエを暗殺するというのはソ連が戦争をしかける前兆で、それを知っている当時参謀次長だった秦彦三郎は、金子中佐に死を聞いて「いよいよソ連も敵にまわるか」と悲痛な叫びをあげたとか。ちなみに前例としては、外蒙をやる前に、ダンバをモスクワからの帰途に暗殺したのがそれだそうだ。