杉田一次「情報なき戦争指導」を読む(その2)

    4 土橋勇逸第二部長時代
  • 土橋少将はフランス通でヒトラーに好感は持っていなかった。
  • 欧米課長には同じくフランス系の唐川安夫大佐(29期、中将)が起用された。
  • 土橋部長は海軍や外務省との連絡に非常に熱心であった。
  • 西原一策少将を団長とする監視団が仏印国境に派遣された。それとは別にビルマへも渡辺三郎大佐(30期、少将)以下約10名が派遣されたが、これは第一部が推し進めたもので、第二部は反対であった。
  • 土橋部長は日ソ条約の締結に熱心であった。ロシア班の甲谷悦雄中佐(36期、大佐)が日ソ和解条約案の研究を命じられ、それが後年の日ソ中立条約の基礎となった。
  • 14年12月、野戦病院を見舞った第十一軍司令官岡村中将は、受傷者に銃剣による傷があるのに気付き、中央直系の精鋭による本格反攻と判断、即時漢口に帰還した。
  • 前線を視察した沢田参謀次長は改めて事変解決の難しさを実感。新任の冨永恭次第一部長が自信を喪失し次長に辞任を申し出る一幕もあった。
  • 大本営内は英国の屈服近しという考えが支配的であった。英米班はヘスの英国への飛行はドイツ国内に何らかの問題があるためではないかと考えていた。
  • ベルギーに於いて栗山大使、辰巳英国武官と会談をしていた岡本清福ドイツ武官は、ドイツ事情について聞かれ「ドイツは目下叉銃休憩中である」と語っていたが、同夜半過ぎドイツはベルギーに奇襲をかけ、両武官とも急遽パリ経由で難を避け任地へ戻った。
  • 『情勢の推移に伴ふ時局処理要綱』で海軍は対英戦に同意し、対米戦に関しても「準備に遺憾さえなければこれに対処し得る成算あり」という建前をとった。
  • 陸軍省は積極的に南進を叫ぶようになり、岩畔豪雄軍事課長などシンガポール奇襲作戦を主張する始末であった。
  • 仮出獄していた前田虎雄、景山正治らが7月5日、米内首相ら要人の暗殺を企図した容疑で逮捕された(皇民有志蹶起事件)。
  • 石川信吾大佐はティルピッツに心酔していた。
  • 英国の屈服は近いと考える沢田次長、冨永第一部長と、ドイツに懐疑的な土橋第二部長、西原少将の考えは対立的であった。沢田次長は英国に圧力をかけるため、香港に向けて重砲を展開するべく動員の御裁可を得た。
  • 日独同盟に関して、土橋部長は埒外に置かれていた。
  • 海軍が三国同盟に反対すれば陸軍がクーデターを起こし内乱になる。それが恐いから賛成したと豊田貞次郎次官は述べた。戦後もこのような論法で責任を陸軍に転嫁するものがあるが、海軍首脳が親独派の中堅を抑え切れなかったことは、三国同盟に至る経緯でも明らかである。豊田に対し長谷川清大将は「内乱よりも戦争のほうが国家として重大であるまた内乱などは起らない」とはっきり述べている。
  • このころ親英派といわれた山本聯合艦隊司令長官の見解も変化を来している。及川海相に対し「ここまでくれば仕方ないだろう」と答えている。
  • 大島浩は在日ドイツ大使館の顧問となり、ホットラインで直接リッベントロップと交渉することが許されていた。小笠原長生中将邸にも週2,3回真夜中にドイツ大使館員が訪れ密談を重ねていた。
  • 来栖、重光、東郷大使は日独同盟に反対であったが、海軍は賛成に回った。枢密顧問官石井菊次郎は「ドイツ或はプロシアと同盟を結んでその同盟の利益を受けた国はない。このことは顕著な事実である。そればかりでなくこれがため不慮の災難を蒙り、ついに社稷を失うに至った国すらある」と警告した。
  • 枢密院において有馬海軍大将と鈴木海軍大将は今が日米海戦の好機会なることを率直に言明し、河合操大将は本条約に積極的に賛成した。
  • 在英辰巳武官、在米磯田三郎武官よりの、英国は米国の援助を受けて立ち直りつつあることや米国の軍拡と英国援助熱に関する電報は、親英米的として軽んじられた。
  • 筆者は、在米武官も務め当時衆議院議員であった原口初太郎予備役中将(8期)を時たま訪ね、その意見を伺っていたが、中将には憲兵の監視がついていた。
  • 第一部は15年頃より次々に参謀を南方に派遣していた。
    比島 島村矩康中佐、岩越紳六大尉
    蘭印 志甫健吉少佐、岡村誠之少佐、加藤長少佐
    馬来 谷川一男中佐、国武輝人大尉
    香港 藤原武大佐、瀬島龍三大尉
  • 第二部も遅ればせながら南方へ参謀を派遣した。
    比島 能勢潤三大佐
    泰馬来 八原博通中佐
    バンドン 石川晋中佐
    フィジー 豊福徹夫大尉
    爪哇 古木重之少佐
    スマトラ 門松正一少佐
    北部スマトラ 西村兵一少佐
    パレンバン 小松原虎雄少佐