宇都宮太郎日記1910

結構長い間探してた(といっても血眼になるほどではないが)ピゴットの『絶たれた絆』を手に入れました。朝、起き際に何となく閃くものがあり、トイレに行くより先に日本の古本屋で検索して発見。こういう勘だけは効くんだよなあ。
以上閑話。

1910(明治四三年)
二月二十八日 月 晴
 満洲長春にて実業に従事せる辺見勇彦(元と高島中将の書生たりしことあり、三十七、八年役には馬賊を率いて功あり。目下は長春に賭場を開き成功、何か御用に立ちたしとの申出なり)。

<注釈>
辺見は日露戦争の裏側で活動した馬賊の一人で中国名は江崙波。父は西郷隆盛軍きっての猛将辺見十郎太。最初は高島鞆之助の書生、次に上原勇作の書生を務めたが、軍人になる気がさっぱりなかったため、大陸に渡った。



三月十四日 月 晴
 此夜、内務省地方局長床次竹次郎を訪ひ、時局発展且つ高島子爵救済の儀に付き相談する所あり。

<注釈>
負債を抱えて苦しんでいる高島鞆之助救済について床次と相談している。床次は薩摩出身故。後に政界入り。昭和の政界をかき回す台風の目となる。



四月七日 木 晴
 部下部員歩兵少佐井上一次、機密書取扱に付不注意の科軽謹慎三日に処す(小功名心利己主義の人にして、大学校にて講演せる講義を印刷し、山県元帥や其外へ配布せんとせしなり。警告する所ありしも注意を欠き物議を生じ、穏便に為し能はざる事情あり処分)。但し次長は同人を米国公使館付と為すことに付ても不同意を唱へられたるに付き、熟考すべきを約す(余は一の考案あり、尚熟考中なり)。

<注釈>
井上一次は石川出身で、シンガポールやフィリピンに差遣されるなど、英米情報畑を歩む、宇都宮にとっては直系の後輩になる。それが、山縣有朋に阿るために、部内秘を勝手に持ち出し、処分を受けた。決まっていた米国駐在の件もこれで中止とすべきと、次長の福島安正は主張したが、宇都宮は留保した。結局宇都宮の配慮で、井上は無事米国公使館附武官となる。



六月十八日 土 曇
 本日は去る明治十八年士官学校を卒業少尉に任官せし第七期生の第二十五回の誕生日に付き、幹事村岡方にて午后より誕生会を開き、会する者、島川、柴、井上、石栗、高瀬、宇都宮に主人村岡を加へて七人。同期生は入校の時は七十人なりしが、目下現職に在るものは僅に巻末に録せる二十六人なり。例に依り中隊長馬場少将(ヨビ)に祝辞を送り歓飲して散ず。
 此夜小山秋作来宅、之に南洋拓殖の必要を語る。

<注釈>
・士官生徒の7期からは宇都宮のほかに島川文八郎が大将となった。硬骨漢で知られる柴勝三郎は中将どまり。井上仁郎、村岡恒利も中将、高瀬清次郎は少将であった。

・小山秋作は何期かは忘れたが、日露戦争では裏方として活動した軍人で、大佐くらいで予備に入ったはず。南洋起業という国策会社を起こすのだが、まさにその相談だろう。宇都宮も英国に駐在していただけに、東南アジアに目が向いている。



七月三日 日 雨
 親友橋口勇馬、女婿宮内歩兵大尉夫妻来訪。寿満子と四人にて晩餐を与にす。

<注釈>
橋口勇馬日露戦争では馬賊を率いて後方攪乱にあたった人で、花大人や前述辺見と同じく薩摩人。父は寺田屋事件で斬死した橋口伝蔵(つまり樺山資紀は叔父となる)。ところで彼が連れてきた婿の宮内であるが、宇都宮は歩兵と書き、この本の編集者もそのまま訂正していないが、これは間違い。この人は宮内英熊といって騎兵科で、後に近衛騎兵聯隊長なども務めた人物。日露戦争では永沼挺進隊に参謀格として加わり大活躍した。
 



八月五日 金 晴驟雨
 早朝深堀未亡人来訪(篠塚へ縁談に付き)。

八月六日 土 曇
 篠塚母来り一応中止の旨にて写真を返へす。

<注釈>
目を掛けている旧部下篠塚義男についての縁談話。結局彼は長谷川直敏中将の娘と結婚しているが、これが宇都宮の斡旋かどうかは知らない。しかし長谷川と篠塚は11歳しか違わないので、篠塚はひどく晩婚だったのか、あるいは再婚か。



九月十一日 日 晴
 夕刻、野戦砲兵監中将大迫尚道来訪。帯病満洲に帰任せし伊地知第十一師団長の進退の儀に付凝議の結果、関東都督より中将の内地転任を上申せしむるを尤も穏当と為し、此手続を取る様細々なる依頼状を余より都督府参謀長星野少将へ送ることと為り、起草研究の上一応親友上原中将に示して発送のことに決して夕食を共にし、大迫氏携へ去る。

<注釈>
病気のまま満洲に帰任した伊地知幸介の処遇に関して、大迫兄弟の弟尚道と相談している。上官の関東都督(大島義昌)から中央に、内地帰任を申請してもらうよう、都督府参謀長の星野金吾少将に手紙を書くことに決したようだ。”親友上原中将”というのは宇都宮と伊地知のどちらに掛かっているのか?年齢からいえば伊地知だろうが。


九月十七日 土 曇
 退出掛、陸軍大将土屋光春を其大久保の新寓に訪ふ。大将は日清役には大佐にて川上中将の下に陸軍参謀たり、余は大尉にて其下に参謀たり、戦役後も大佐は第二局長にして余は引続き其下に大尉局員たりしなり。余が日清戦役後対露の目的を以て従来の七師団を倍加して十四師団の七軍団に拡張すべき意見を呈出し、財政の関係上近衛の二師団は一師団となり結局十三師団案として成立せしは此土屋大佐の局長時代にて、川上中将の力は勿論なれども、大佐の好意も与て其進達成立に多大の効果ありしなり。今の伊地知中将が当時の中佐にて、土屋局長の下に今の課長の如き位置にありたり。先づ之に謀り其力に依りて順次進達せられたるなり。当時第一局長たりし少将寺内正毅、陸軍次官たりし少将児玉源太郎等は初は之に反対せしは今に一奇なり。彼等は此兵力を以て当時過大と為せしなり。殊に参謀本部中にても東条英教の如きは、僅かに一師団増加を以て足れりと称したり。畢竟是等は当時対露の観念未だ皆無若くは不十分なりし結果なるべし。

<注釈>
土屋光春は岡崎出身で、川上操六にその才を認められ起用された人。日清戦争後、師団の倍増を唱えた宇都宮を後押して、何とか13師団まで持っていった。このとき陸軍省寺内正毅児玉源太郎は増師に反対し、参謀本部に於いても東條英教などは一個師団増で十分と言っていた。第2局員であった伊地知は、宇都宮と同じく増師を主張していた。土屋はこの八月に大将親任と同時に後備となった。宇都宮の訪問も恐らくはその慰労であろうが、もう少し大将として用いるべき人物であったのではないか。思い出話を記した宇都宮にもまた、そういう残念な気持ちがあったのではなかろうか?



九月二十六日 月 雨
 午后三時三十分、清浦子爵等の斡旋にて出来上りし同郷の先輩司法大臣伯爵大木喬任銅像除幕式に参列す。同郷の人の外は会するもの寥々。これが長州人の仕事ならば猫も杓子も駆付け可きに、人情の軽薄是非も無き次第なり。

<注釈>
佐賀の大先輩である大木喬任銅像除幕式。参列者が少ないことを愚痴っている。長州人の銅像なら猫も杓子も駆けつけるであろうにと。時代は下る。大正11年、長州の山縣と佐賀の大隈という超大物が前後して亡くなったが、参列者は大隈の方が遥かに多かったという。



十月二十五日 火 小雨
 新嘉坡松本より「小山トモ相談確定、五千円送ラレ度シ」との電報昨夜到達、乃ち南方経略事業の準備に一歩を踏始めたるなり、慶すべし。唯だ準備せしは二千円にして三千円の不足なり。福島次長に相談せしも二千以上は出来ず、去て辻村経理局長に談ぜしに、同情を以て心配し呉れしもこれ亦た確実なる算なし。因て初の決心の如く渋谷地所抵当にて明治商業より借出し得る余地尚ほ存するを以て、後は後として此際此三千円は同銀行より借出し送金以て急場の需要を充すに決心す。

<注釈>
南方経略のため、シンガポールに着いた小山から金が足りないとの電信。参謀本部でも陸軍省でもこれ以上出せないとのことなので、宇都宮は渋谷の地所(2800坪)を抵当に、自分で金を借りることにした。宇都宮の月給は262円。それにしても、社会保険庁の連中に聞かせたい話だ。


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