百年の明日 ニッポンとコリア

朝日新聞3月24日朝刊より。
蓮池薫さんのロングインタビュー。

−ソウル訪問の印象をつづった「半島へ、ふたたび」(新潮社)を出版されました。韓国への旅を思い立ったのは、なぜ。
「大学で韓国語を教えていて、以前から一度は訪れたいと考えていました。初めて自分の意志で行く外国です。過去の戦争の扱いや歴史・文化の視点から、感じたことを書き、学生に伝えたかった。共通のものさしで南北を比較でき、日本と朝鮮半島の関係も見えるところを訪問しました」
「私の言葉は、北のイントネーション(抑揚)なので、韓国で話すことに抵抗もありました。『スパイを見たら通報を』という看板がある国ですから。自由に話しかけたいと思う一方、警戒されるかなとも。でもソウルは、拉致されていた北朝鮮では『悪の巣窟』と呼ばれ、よもや行けることはないだろうと思っていた。自由の身になって訪問するのは痛快でもありました」
−ソウルで、戦争記念館を訪れたことを、詳しく書いておられますね。
「現在の朝鮮半島を語るには、朝鮮戦争を知ることが不可欠です。私は平壌で戦勝記念館を見ています。双方の立場や見解の違いを伝えるのも、役目と思いました。どちらにも、同じ写真が展示されていた。朝鮮戦争開始の1週間前、米政府高官が38度線から北朝鮮を視察している様子です。北朝鮮では『対北侵略へと南朝鮮を駆り立てた』と、米国が戦争の下調べをしているとの説明です。だが韓国では『38度線の緊張状態を視察』と、北の挑発で対策が必要になったと。住民に対する虐殺行為も、北朝鮮では米軍の行為、韓国では北朝鮮の行為となる。歴史は見方で変わるんです」
「ただ、それ以前の戦争では、侵略にどう立ち向かったか、南北の評価は驚くほど一致している。まったく同じ根っこ、歴史で来ていた。わずか60年でがらりと変わったのが、南北分断の悲劇だと思いました」
―日本の植民地支配についての伝え方、評価にも南北で差がありますか。
朝鮮民族がどんなひどい目にあったかは同じ。ところが、日本による韓国併合以降の抗日運動については全然違う。韓国では、上海にあった臨時政府の系列を重要視しているが、北は全く評価せず、金日成の抗日闘争が中心になっている。もちろん今の韓国は言論が自由だから、見方も多様になっています。一方、北の見方は、常に一つ。ただ、それも政治的な要因で変化する。たとえば、国民への思想教育で、東欧社会主義体制の崩壊前は、共産主義思想を強調していた北朝鮮も、崩壊後は民族主義的な感情に訴える傾向が強まっています」
−「反日教育」の比較もしています。
北朝鮮では、映画・小説なども含め、あらゆる大衆文化を使って反日教育が行われていました。学校で教える現代史は反日闘争、戦後は反米闘争の歴史になります。植民地統治が残酷で厳しかったと教えるほど、弾圧の中で闘争を繰り広げ国を解放した首領の業績が際立つ、そういう性格でした。一方、日本が独立活動家など政治犯の弾圧に使っていたソウルの西大門刑務所を見学した印象は、反日思想をいたずらにあおっているという部分もなくはなかったが、主には受難の歴史に対する教訓を伝えているように感じました。掲示板に張り出されていた約150人分の見学者の感想の中には、反日的な記述よりも、『愛国烈士』に対する感謝と尊敬の念を表したものが多い。愛国教育という面もあるようです」

−南北の歴史に、これほど強く興味を持つのは、なぜでしょう。
「元々は、韓国語を教えながら朝鮮半島を研究するという自分の専攻から来ています。さらに言えば、懸案である拉致問題が完全に解決した暁には、恒久的な東アジアの平和と繁栄に資する方向で何かやっていきたいですが、その方途は歴史を見つめなおすところから始めることだと考えます」
北朝鮮と日本、韓国と日本のあいだには、歴史的な事実とともにそれから生じる『感情』があるわけです。そういうバックボーンがあることを知らない人があまりに多い。学生と話していても、『えー、そんなことあったんですか』と言う。私の視点からこういう問題をきちっと出していくのも必要ではないか」
「拉致されてまもなく、北の人間から、親類が日本に強制徴用されて、さんざんな目にあったという話を聞かされました。その時、私の心に浮かんだのは、『その時生まれていなかった私に何の関係がある。拉致しておいて何だ』という反発でした。当時でも植民地支配のことはそれなりに知っていた。でもその話は私の感情をひどく刺激しました。『頭ではわかっていても抑えられない相手の感情があることを理解すること。それを刺激しないこと』。日本と朝鮮半島の過去の事実をふまえながら今後の関係を発展させていくヒントは、そこにあるような気がするんです」
−1978年7月、後に結婚した祐木子さんと共に、故郷の海岸から拉致され、湾岸の「招待所」に連れて行かれました。
朝鮮語の勉強をすれば帰れると言われました。5カ国語の会話集を渡されて、自分で勉強しろと。向こうの言葉の下に、カタカナで読み方が書いてありました。指導員は週に1度しか来ないので、招待所の世話係のおばさんに聞きながらの独学です。教材として朝鮮語の論文集と日本語訳を渡されましたが、役立ったのはテレビで放映される映画です。番組が少なく、同じ映画が何回も放送される。あらすじがわかっているから、そのうちに何を言っているのかわかってくる。一生懸命に聞いて覚えました。まわりが言っていることを理解するのは、拉致された人間が生きていく上で、死活的なことでもありました」
−拉致について説明を受けましたか。
「彼らには、罪悪感がない。『日本は昔、朝鮮から大勢の人を日本に連れ出した。だからこの程度は』という認識です。革命の推進、思想や理念の実現のためということでも正当化していた。日本へ帰国が決まるまで『すみません』の一言もない」
−「半島へ、ふたたび」ではソウルの普通の人々の姿も紹介されています。北朝鮮で普通の人々と接触する機会は。
「ふだんは招待所から出ることができない。でも年に1度ほど、監視役がついて、公認の市場に買い出しに行きました。招待所では手に入らない衣服や靴を買いに行った。1キロ四方に数千人の行商人が集まる。買う時は値引き交渉から。人々の生活を垣間見ることができた。中国製が多いですが、行商人は『品質の1番いいものは日本へ、2番目は中国国内へ、3番目の粗悪品がベトナムやここへ来る』と言っていた。大枚はたいた靴も1週間で底が抜けました」
―一般の人は、体制の説明通り、貧しさをアメリカのせいと思っている?
「ええ。というか、そう言わねばならない。生活が苦しいのは分断のせい。いつかは統一しないとならない。そのために苦労してでも、軍事力をつけねばならない。勝つまではぜいたくは言わない。昔の日本みたいです。分断の原因は何か。アメリカであり、それ以前は日本だという構図が頭に刻まれていますね、ほとんどの人に」
「ただテレビで、光州事件とか、過去の韓国の反政府闘争や民主化運動の様子を流し、『北の要請に従って、韓国人も闘っている』と流れるけど、庶民は『みんないい服着てるね。ぽっちゃりしてるね』と見てしまうわけです。上からの説明も、当然心の中で、『でもな』と思っている人もいる。でもそれは表現しないしできない」
−拉致され、苦難の人生を強いられました。北朝鮮の人々への嫌悪感、つきあいたくない気持ちはないですか。
「拉致したのは一般の人ではなく、指示をした人間たちとその指示を受けた工作員です。北朝鮮で本当に優しくしてくれた人も、印象に残る人もいる。看病してくれたり、食事が合わないと気を使ってくれたり。将来そういう時期がくれば、また会ってお礼を言いたい人もいます。だが、それもすべて拉致問題が解決し、情勢が変化してからのことです」
「今、大学で教えている留学生も、気に入らないことがあると『日本人は』と口にする。民族的な対立にしてしまう。よくないですね。中国にも韓国にも日本にも、いい人も悪い人もいる。『いい人と付き合えばいいじゃないか』とアドバイスします。最終的には個々の付き合いです。将来、東アジアの人たちが仲良くなるためにはこれが何よりも大事だと思います」
朝鮮半島には「恨」の文化がある。憎まれる立場の日本人としては、気後れのようなものも、正直あります。
「韓国で話を聞いたり、読んだりすると、『恨』は日本の『恨み』とは違う。朝鮮半島は、歴史的に大国に囲まれた中で、試練が多かったわけですね。それで自分の思い通りにできない。その切なさが『恨』。やむを得ず中国の明や清の影響下に入り、国の存続を図ってきた。私が最初に翻訳した『孤将』という小説の主人公で、豊臣秀吉の軍勢を迎え撃った李舜臣は、その典型です。猜疑心の強い自国の王からも信用されず、援軍として駆けつけたはずの中国は、裏で日本と手を握って、朝鮮半島の命運を決めてしまう。なんとか自分の思う方向に導いて解決したいとの思い、どうして自分の国を強くして守りきれないのかという部分もある。その気持ちは日本人にもわかるでしょう」
拉致問題は02年に被害者5人、04年に家族が帰国した後、進展していません。
「多少、拉致問題が忘れられているという思いがあります。私がマスコミの質問にこうしてお答えするのも、あまり行きたくない拉致現場で写真撮影に応じるのも、この問題をきちんと皆さんに覚えておいてもらいたいからです」
−解決に向けてのお考えは。
「一番言いたいのは、最終的には政府だけが、北朝鮮を交渉の揚に引っ張り出し解決につなげられるということです。真摯に話し合い、きちんとやってほしいということです。拉致問題の解決を、交渉でやるのか、力でやるのかという話がありますが、僕は交渉でやるしかないし、それが早いと思う。被害者の家族も年をとってきている。どうにかなるまで待っているわけにいかないじゃないですか」
「私は拉致のことを話す時、『絆と夢を奪われた』とよく言うんですが、ここだけは譲ってはいけないと思うんです。まずは被害者全員が帰ってくる。それに私は帰国の際、故郷の人たちとの絆は戻ったけれど、向こうで生まれた新たな絆である子どもだちと別れてしまうことになりかねない1年半があった。本人を帰してもらったから、よしとしようというような、家族の絆を断ち切るような解決はだめです。新たな悲しみ、苦しみが始まるわけですから」
北朝鮮に残されている拉致被害者の家族の方々がおっしゃることは、被害者を思いながら、何としてでも帰ってきてほしいという気持ちの噴出です。政治的にバランスをとって、北朝鮮の立場までは考えて話したりする余裕はないし、その必要はない。そこを受け止め斟酌するのは政府の責任です。家族の意向に基づきながらも、北朝鮮を交渉相手として振り向かせて、拉致問題解決にもっていくようにしなければならない」
「そのためには、何が必要かは政府が一番わかっているはずです。なぜならいままで北と交渉してきて向こうの感触をわかっているはずですから。世論がこうだと言って、こっちによろよろ、あっちによろよろでは、北朝鮮は交渉相手として信じないという一面もある。政権交代があって、今までのしがらみがなくなったのだから、どんどんやっていってほしいのですが。他に大変なことがあるから進まないのか。もう少しがんばっていただきたいなと思うんです。姿勢がいまいち見えないですね」
−将来の日朝関係のあるべき姿は。
拉致問題が解決すれば、当然日朝の関係は改善に向かうべきでしょう。韓国とは賠償問題を決善させており、北朝鮮にも何もしないわけにはいかないというのが、日本政府の立場でもあるようですから。拉致解決のためにも、それらを含めた交渉を早く始めてほしい」
−日韓関係がより深まるには。
「やはり歴史の問題が大事です。共同歴史研究はとてもいいと思う。意見が合わなくても、同じ場で話し合ったことを評価したい。焦らなくていい。あとは個々の関係です。民族を超えた人間同士の付き合いが深まれば、ちょっとやそっとの摩擦で、揺らぐことはないと思います」

半島へ、ふたたび

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