義烈

こちら戦争を語り継ごうブログ 義烈空挺隊長・諏訪部忠一中佐で知った記事。
http://mainichi.jp/select/opinion/yuraku/news/20100125dde041070040000c.html

仙台市の会社役員、佐々木芳典さん(78)は、1945(昭和20)年の沖縄特攻作戦に参加し、26歳で戦死した諏訪部忠一中佐の慰霊の旅を続けている。

 飛行隊長だった中佐は、義烈空挺(くうてい)隊(空中輸送で移動する地上戦闘部隊)を乗せた重爆撃機で、米軍占領下の沖縄の飛行場の占拠を目指した。中佐は43年春から約2年間、福島県原町(現・南相馬市)の佐々木さんの実家に下宿した。当時、原町にあった陸軍飛行場から帰宅すると中佐は、和服に着替え、オルガンを弾き、絵を描いた。佐々木少年に勉強を教え、「一緒に散歩しよう」と誘う心優しい人だった。出発前に、小刀で長さ40センチほどの白木に観音像を彫り上げ、佐々木家に残した。詳細は一切、語らなかった。

 45年5月、朝のラジオニュースで初めて中佐の特攻死を知り、衝撃を受けた佐々木さん。「兄のように慕い、好きで好きでたまらなかった。死を前に、どうしてあんなに穏やかでいられたのか。彼らの犠牲の上に今の平和があることを若い人にも知ってもらいたい」【江森敬治】

諏訪部第三独立飛行隊長は陸士54期。勿論二階級進んでの中佐。
出撃前に握手を交わす奥山隊長(左)と諏訪部飛行隊長(『あゝ純白の花負いて』より)

機上の奥山(中央)、諏訪部両隊長(同)

奥山隊長*1は一期上の53期。工兵科から落下傘部隊にやってきた。練習降下の前、ある練習員に配られた落下傘の番号が四十四番で、彼はこれを気にして取り替えてくれと申し出た。それを見ていた奥山は、「俺の使う落下傘を練習員に渡してはいかん」といって、自分が四十四番を提げた。出撃後に少佐に昇進。死亡確定で二階級進んで大佐とされた。
それからホームページの掲示板の方で、松本零士氏のお父さんについて尋ねられたのだが、私は彼のお父さんが軍人だったことを知らなかった。松本強というお名前らしいが、名簿に当たったところ、少尉候補者の10期にそういう方がいる。大東亜戦争では第三十二教育飛行隊長を務められたようだ。