昭和十年代の陸軍と政治・第6章-其の6

昭和天皇独白録 (文春文庫)ではこの阿部内閣の陸相人事について次のように書かれています。

当時新聞では陸相候補として磯谷中将外一名が出ていた。この両名では又日独同盟をもり返えす怖れがあるし、又当時政治的に策動していた板垣系の有末軍務課長を追払う必要があったので、私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据える事を阿部に命じた。

この部分昭和天皇二つの「独白録」 (NHKスペシャルセレクション)ではこうなっています。

新聞は候補者として二人の名をあげた。その一人は磯谷中将(現在は巣鴨拘置所にいる)だったが、他の一人の名は思い出せない。日独同盟に同意する方向に進むおそれのある将官陸軍大臣に据えることは何としても避けたかったので私は畑大将と梅津中将の二人の名を持ち出した。畑、梅津ともに日本がドイツと同盟を結ぶことには反対であると私は確信していたからだ(畑が侍従武官長にする前、私は宮内大臣の松平に、畑が日独同盟についていかに考えているか調べるよう命じ畑が同盟に反対だと知ったあと、畑を侍従武官長に選任した)どうしたらよいか苦慮した阿部が板垣大将に相談したところ板垣は梅津起用に反対した。その結果当時私の侍従武官長だった畑を任命するほかなくなり、畑が陸軍大臣に据えられた。

御前で阿部の口から出たのは多田だったはずです。しかし陛下は多田の名前は忘れておられる。これだけを見ると確かに、佐野氏が言うところの東條憲兵の謀略的リークは成功しているように思えます。阿部が参内してくる以前、新聞報道を見た時点で陛下は、阿部の持ってくる陸相案に反対する肝を固めておられたようですから。しかし同時に多田や磯谷が忌避された理由もはっきりします。陛下には、日独同盟に反対するであろう梅津という意中の人物がいたわけです。ですからこれは想像ですが、仮に板垣が多田ではなく東條を推薦していたとしても、陛下はこれを却下されたのではないでしょうか。

、梅津がいずれもドイツ駐在組で、多田、磯谷がドイツに縁もゆかりもない支那通というのはちょっと皮肉なものです。私自身は梅津がそこまで日独同盟に反対であったという確信は持てませんが、殊の外軍人に目を配っておられた陛下のことですから、何かつかんでおられたのかも知れません。一方、多田や磯谷が日独同盟をぶり返すような人物であったという確証も無いですが、これは彼ら個人の資質の問題というより、陛下の(現陸相)板垣に対する怒りと、阿部内閣の出自そのものへの不信感に起因するとばっちりではないかと考えます。

五相会議に於ける板垣の粘りは語り草です。彼個人がどこまで日独同盟に拘りを持っていたのかは疑問なのですが、枢軸派の部下の要求通りにしつこくしつこく粘りました。日独同盟が嫌で堪らなかった陛下にとって、これは本当に頭にきたと思います。その板垣が推している、それも彼と同類っぽい人物というだけで、陛下的にはOUTだったのではないでしょうか。平沼内閣が総辞職するとき、板垣も他の閣僚と同じように形式に則った辞表を呈出しましたが、それを読んだ陛下は、侍従武官長の畑を呼び、

陸軍大臣の辞表は形式とはいえ他の閣僚と同一通り一遍のものなり。不満に思う。

と憤懣を述べられております。

また陸軍で阿部信行への大命降下工作に活発に動いていたのは、軍務課長の有末精三大佐とその部下の富田直亮中佐、牧達夫少佐の「枢軸三人男」でした。有末はムッソリーニと親友であるというのが自慢の種の男で、自伝では誤魔化してますが、このときかなりえげつない工作をやっているようです。そのお陰で彼の宮中での評判は最悪で、まだ阿部に決定する前、「宇垣山を降る」という情報を得て、侍従武官長の畑に問い合わせの電話をしたとき、畑から

「君いい加減にし給え、君は宮中で評判悪いよ」

と剣もほろろに突き放されています。またその後陸相に就任した畑から、「阿部総理は勿論他の閣僚に話しかけてはいかん」と、政治に関わることを禁止されています。ただ彼が板垣系というのは間違いで、彼は典型的なオポチュニストです。

有末が阿部内閣についてどう考えていたかは、次の挿話がよく顕しています。彼は北支方面軍参謀に転任することになり、赴任前に宝亭で家族と食事をとることにしました。彼が麹町の宝亭に赴くと、「武藤様御席」という札が掛かっており、挨拶をしようと顔を出すと、武藤章の他に秋永月三、河村参郎池田純久岩畔豪雄の4人がいました。

河村が、
「オイ、久原はどうか」と私に聞く。
「なんだ、次の内閣の話か」というと、
「ウン、そうだよ」と河村は平然と答えた。
私はムッときて、
「なんだ、君等は僕らがせっかく作った内閣をつぶす気か。それなら俺も新民会をぶっつぶすぞ」と少々気色ばんでいった。
「マァマァ、そんなことをいうなよ」と河村。
「イヤ、私は明日、北支へ赴任する」と私がいうと、
「オイオイ、冗談だよ」と武藤が茶化した。

これは軍務局長武藤章回想録の一節ですが、新民会というのは武藤が北支方面軍参謀副長時代に、参謀長の山下奉文と共に作った協和会のパチモンみたいな組織です。「お前達が俺の作品を壊すなら、俺もお前達の作品を壊す」と言ってる訳で、当時の政治軍人と呼ばれる人々の意識が垣間見えます。ちなみに北支に行った有末は、潰すどころかこの新民会を「子供がおもちゃをいじり廻」すように熱心にいじり廻したため、東亜連盟系の人々から蛇蝎の如く嫌われました。

組閣直後のまだ軍務課長時代、西浦進と共に中支、北支の視察旅行をした有末は、北支で軍司令官の多田に会い、彼から「乃公の陸相候補が中止になったその真相、特に陛下御信任云々について」説明を求められ、次のように答えています。

「何も閣下をご名指しで忌避せられたのではなく、阿部大将の大命拝受の折、とかく近時における軍のやり方について、軍全般をお誡めになって越軌の行動を抑えるために、特に畑大将か梅津中将をお名指しになったのでしょう。畑大将着任の訓示が、最も雄弁にこれを説明していると思います」

どう考えても有末自身、誡めの対象であるにも関わらず、この”ひとごと”のような説明には苦笑せざるを得ませんが、彼の回答は確かにこの問題の真因を衝いていると、私は思います。

以上、本書において最も短い第6章について長々とやりましたが、ここらで終わろうと思います。

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