佐藤裕雄大佐のこと

先の小園安名大佐のエントリで名前だけ触れた佐藤裕雄大佐について、書く気があるうちに書いておくことにする。やはり佐藤大佐のエピソードで有名なのは終戦時の話だろう(世間一般はそもそもこの人の存在自体知らないという突っ込みはこの際断固無視する)。当時軍事課高級課員であった高山信武は『参謀本部作戦課』の中で次のように書いている。

” 大本営中堅幕僚の間では、以上のような継戦思想が圧倒的多数を占めたが、一部には慎重論者、和平受諾論者もないではなかった。
 「継戦の気持はわからないではないが、いったい世界の列強を相手にし、しかも原爆をも使用された現在、戦局の見通しをどう考えるのだ。徒らに戦禍を拡大し、再起の力を失うだけではないか。本土上陸に際し、敵に一大打撃を与える事があるいは可能かもしれないが、米英軍のみならず、ソ連も北部日本に侵攻してくるであろう。遅れれば遅れる程、態勢はわれにとって、不利になるであろうことは眼にみえている。まして、陛下のご意向は明白である。陛下のご聖断が下った以上、大御心に従うのが、われわれ軍人の本分ではないか」
 「太平洋の孤島や、大陸の奥地で玉砕したわが陸海軍の各部隊、および一部民間人の犠牲者に対しては、まことに同情に堪えない。しかし、敵は不法にも原爆を行使して、わが本土に対し無差別爆撃を加えている。敵が本土上陸を企図するならば、恐らくは徹底した砲爆撃により、わが交通、通信等の機能を完全に破壊したうえ、陸兵を揚陸せしめるであろう。これ以上戦争を続行することは、徒らに禍害を累加するのみだ。行ぎがかりに捉われてはならぬ。南方あるいは大陸各地の戦死者の霊も、恐らく妻子親族の住む日本本土を、これ以上破壊されることを好まないであろう。今こそ冷静に和平を考えるべきだ。それこそ大本営の最高の責務ではないか
 右のような、冷静な和平論は、激昂した大多数の継戦論の前には極めて微力であり、卑怯者のそしりをうけるに過ぎなかった。”

上記意見を述べた人物こそが、当時戦備課長の要職にあった佐藤大佐であった。

佐藤裕雄は仙台幼年学校から陸士(35期)へ進み、野砲兵科トップとして恩賜の銀時計を戴いた。その後砲工学校高等科も優等で卒業し、員外学生として東京帝大で電気学を修めた。陸大は出ていないが、それを補って余りある学歴である。中央幼年学校時代の次のようなエピソードが残っている。ある日曜日の外出時に雨が降った。佐藤は同じ山形の二人とともに傘を差して帰って、営倉に入れられたという(将校生徒は傘などさしてはいけないのだ!)。一体どうして傘など差したのかというと、日曜下宿に来合わせていた同郷の先輩で陸大教官をしていた石原とかいう人が、「雨が降ったら傘を差して帰れ」とけしかけたからだそうだ。

そんな彼も若いころは革新運動に関与していた。立場的には所謂清軍派(まあ橋欣一派)に分類され、小桜会の名簿にも名前がある。十月事件の後、どちらが情報を漏らしたかで、橋本、大川一派と西田税が対立したことがあった。結局橋本と西田の直接対決で白黒つけることになったが、約束の日、西田は偕行社に現れなかった。そこで末松太平中尉が呼びに行かされたが、そのとき一緒に西田宅まで付いてきたのが佐藤と天野勇中尉であった。佐藤にとって西田は中幼時代の指導生徒であった。そういう関係からも佐藤はくどいほど出席を勧めたが、結局西田は腰を上げなかった。その後はそれほど目立った動きもないようなので、だんだんに技術軍人としての本分に立ち返ったと見るべきだろうか。

大東亜戦争では、南方軍参謀としてパレンバン油田の占領に活躍した。そして昭和18年3月、物動を担当する陸軍省戦備課長に補された。部下課員には塚本清彦少佐もいた。細川護貞の昭和19年6月10日の日記に次の記述がある。

”要するに塚本少佐は佐藤戦備課長等と共に、八月に決戦あることを予期し準備中なるを以て、今東条が変わることは好もしからず、従って東条はそのままとし乍ら、東条の自由にならぬ内閣を作らん意図なりと。”

要するにこのころの佐藤大佐、塚本少佐の考えは一撃和平論であろう。戦争末期には全軍に蔓延したこの考えも、この頃ではまだ少数派であった。戦備課長として、日本の真の国力を把握していた佐藤ならではであろう。同じく細川日記6月18日。

”二時、佐藤大佐、松田氏と共に来る。話は極めて婉曲なりしも、先づ塚本少佐がサイパンへ転任を命ぜられたること(東条内閣打倒を計画せりとの疑いを以て、懲罰の意味を以てサイパンに転任せしめられたりと高村氏談)・・・・”

東条内閣をそのままにしておくことを望んでいた塚本が、倒閣運動をやったという疑惑で転任させられた。この塚本少佐のサイパン転任は、東条の”陰湿な人事”の代表例として語られることが多い。少佐とかつ子夫人との間の車問答も有名。塚本はパラオから軍司令官小畑英良と共に海軍機でグアムに入り、そこで玉砕した。しかし彼が戦死したときには既に東京の東条は桂冠していた。おかげを持ってか?佐藤は戦備課長の職に留まった。もちろん彼の才能が余人に変え難いというのもあったが。戦争末期、近衛が特使としてソ連に行くという話が出たとき、陸軍側の随員として同期の松谷誠と共に名前が挙がっていることからみて、相変わらず終戦派からは一定の信頼を得ていたようだ。松谷ほどはっきりと終戦工作にコミットしていたわけではないと思うが(松谷についてはまた別エントリで書くつもり)。

そして終戦。冒頭の話に繋がるわけだが、継戦派であり、One of The クーデター首謀者sの井田(岩田)正孝は、『雄誥』で次のように書いている。8月12日のことである。
” 十三・〇〇、荒尾課長、竹下、稲葉両中佐の三名は、若松陸軍次官に会って、兵力使用計画の大綱を説明し、次官の承認を要請した。人事局長、兵務局長も呼び出されて説明続行中に、後から入室してきた佐藤戦備課長が計画に反対を表明したため、次官は一応賛否を保留し、俄かに白々しい雰囲気を呈したが、折しも大臣が戻られたので、次官は今までの経過を報告するため大臣室に入った。
 その頃、予め竹下中佐から連絡を受けた面々が逐次次官室に集合し来り、直接大臣に意見具申する方がよいと衆議一決、全員大臣室に入ったので、改めて竹下中佐から計画大綱を説明して、大臣決裁をお願ひすることになった。しかし事は極めて重大であるから、閣議に出席する直前の大臣としては、十分検討する時間もなく、決裁を保留せざるを得なかった。しかし実行部隊の東部軍と近衛師団に対して予告を与へることについては、準備に時間を要するので、最終的に大臣の承認を取りつけた。大臣は次官に所要の指示を与へ終ると、急遽閣議の席へと向はれた。かくて、東部軍と近衛師団に対して、正式の極秘準備命令が下達されたのである。
 この席に居合はせた者は、次官、人事局長、兵務局長、軍事課長、戦備課長、軍務課の山田大佐、竹下、椎崎両中佐、畑中少佐、軍事課の稲葉、井田、島貫各中佐、飯尾少佐、参本二課の原中佐、次官秘書官広瀬中佐等であったが、畑中少佐が突如大声で戦備課長を指差しながら、「軍内部にパドリオ通謀者が居る」と叫び、これを受けて竹下中佐が「そのやうな者には即刻人事的措置を加へて頂きたい」と発言した。これに対して大臣は、非常の折柄、相互不信は禁物であるとたしなめられた。”

ところがである。この後梅津参謀総長の反対で兵力使用の前提条件が崩れた。意気消沈する竹下中佐の下へ、黒崎貞明と共にやってきた佐藤は、一度や二度の失敗で諦めるのは早すぎると激励したという。14日の午前8時のことであった。どういうつもりでこういうことを言ったのか、その真意は分からないが、それを傍らで聞いていた畑中健二は日付変わった深夜、近衛師団森赳将軍を殺害している。その後阿南陸相が自決し、それを見届けた井田は陸軍省に戻ってこれまでの顛末を若松次官以下に報告した。そのときも佐藤は、井田の手を握り「井田君、俺を誘ってくれたら、一緒に行ったのに、なぜ誘ってくれなかったのか」と言ったという。行くというのは陸相官邸なのか近衛師団なのか分からないが、井田はパドリオ扱いした人からそのようなことを言われ、複雑な忘れがたい印象を受けたという。

佐藤が少数の終戦派の筆頭なら、荒尾興功こそがもう一方の旗頭であろう。荒尾の心底というのも分かりにくく、それ自体昭和史の謎といえるが、二人は仙台幼年学校以来の同期であった。最後非常に長くなるが荒尾の手記を引用して、この散漫なるエントリの締めにしたいと思う。

「佐藤と私は、仙幼校以来の親友であり、彼は東大を、私は陸大を卒業したが、外国(ソ連ポーランド)においても、南方総軍においても、はたまた、陸軍省においても、勤務を共にし、憂国の情においては、共通する感情がありました。
 互に相許し、生涯信頼を裏切ったことのない仲です。私は昭和十七年四月、南方総軍の作戦主任参謀から、大本営船舶課長に赴任して参りました。その職責上、先ず『主として船舶輸送の見地より戦力の推移』を観察するの必要を感じ、船舶課高級参謀三吉義隆(仙幼23期)、船舶課参謀嬉野通軌、海軍軍令部作戦課参謀一名、及び当時召集中の慶応義塾大学武村忠雄助教授の合同作業で、同年初夏の候一応の研究を終りました。右研究の結論として『船舶輸送を以て作戦を行いつつ、近代戦に必要なる戦略物資を輸送し得る限界は、昭和十九年晩秋の候』との判断に到達した次第です。私は嬉野参謀を伴い、時の参謀総長杉山元帥に『目下の戦況は、花々しく見えますが、昭和十九年末頃までに、光栄ある戦争の終結を求めて頂き度い』旨意見を開陳しました。当時の戦争指導班にも、強くこれを要望しましたが、昭和十七年頃では私としては船舶の建造、護衛の強化、自衛装備(電波兵器、音波兵器を含む)の強化、木造船の徴用および運用等に力を入れる外なかったのです。船舶関係のことは、爾来各方面の支持と協カとを得ましたが、・・・・・
 佐藤は、南方総軍の第三課参謀から昭和十八年三月陸軍省戦備課長に抜擢され、陸軍の大台所を預る重責に任じました。私は昭和二十年四月、図らずも、陸軍省軍事課長に任ぜられ、佐藤と共に、阿南大臣を補佐する立揚となったわけです。日本の戦争遂行に関する物的戦力の認識は、阿南陸軍大臣も、佐藤も、私も、同一であったと確信します。かくして昭和二十年初夏の頃までは、次期本土決戦に国の総力を結集して余す所なく、力を振り絞って、敵に一大打撃を与えて、光栄ある戦争終結を求める為、私と佐藤は、陸軍次官を長として戦力の増強、就中航空装備の充実に、真剣な努力を重ねたものでした。このことは阿南大臣のお考にも一致しておりました。ソ連を通ずる和平工作の件は、箱根に疎開しているソ連大使館への出入り情報を憲兵から承知し、密に、之を推察していましたが・・・・・。戦況非なるその頃は、和平は禁句であり、またソ連を通ずる和平工作も、閣議外では、極秘であり陸軍次官にすら漏らされていませんでした。
 六月、私は大臣に随行して、長野、新潟地区を視察した際、大臣は『ソ連は信用出来るのか』の切り出しでお話があった。私は『ソ連の近世の外交は、力の背景が前提となっている。彼は、今、日本が熟柿となる時機を待っているのでなかろうか。仮令日ソ不可侵条約が有効期間中でも、連合軍の日本上陸の進発の時機か、上陸成功の報に接せば、ソ連満州侵略は必至である。ベルリン進撃の現況から察すると、早まることはあっても遅れることは無いと思う』と所懐を述べて、ソ連との外交を手掛けられた松岡(前)外務大臣との会談をお奨めした。この視察の直後、松岡さんの秘書と相計って、陸軍大臣と松岡さんの市ヶ谷会談を実現した次第です。
 阿南大臣は、政治家として、何とか終戦に持って行かねばならぬと考えておられたと思う。然し大臣就任後、終始烈々たる気味で、戦機を捕え、敵に一大打撃を与えて、名誉ある講和、少くとも国体を護持せんとする強い信念であったことは「阿南伝」にも記載せられている。これは多くの人々が認めている阿南大臣の心情である。この大臣を補佐する佐藤課長と、私との立場を、世上俗に、和平派と、抗戦派と称するものがある。八月十日午前、阿南大臣が陸軍省参謀本部の幕僚たちを集めて訓示した。この後、陸軍次官の前で、興奮して議論する若い幕僚に対し、佐藤が『和平のことも冷静に考えねばならん』と諭したことが、簡単に和平派と目されたのではあるまいか。八月十三日夜、佐藤は私の室に来て『お上のポツダム宣言受諾に関する御決意は、固く変わらない旨の確な情報』を伝えてきた。
 その頃和平派と抗戦派とか称し、互いに殺気立っていた。和平を選ぶも、抗戦を説くのも、皆、国を思う所以であり、共に自己の生命を賭けていたからである。佐藤は、大臣や私が継戦を主張するものは、私心や、面子でなく、大命を奉じて、国家百年の運命を開かんとする考えくらい、百も承知していた。従ってこの避け得ざる『最終決定は上御一人にある』ことは、両人の間では、生死一如の如き強い共通の信頼感があったわけで、厳しく且つ誤解、風説の飛びかう中で、俗称和平派の大物課長が、抗戦派の若手の主脳と、何のためらいも、何のこだわりもなく話合えた次第である。結論的に申せば、事態の認識は、阿南大臣も、佐藤も、私も同じであった。
 阿南大臣は、国体護持のため、大命を奉じて本土決戦に、日本の運命を開かんとし、死中に活を求むる所以と信じておられた。若し八月十二日の連合国の回答が、国体護持を認めたならば、事態は、和平に一変したであろう。然し八月十四日の御前会議で『国体の護持に確信あり』との御言葉が、最終決定を告げたものであります。
 尚佐藤は、終戦後の軽佻浮薄の世情に対し、ポツダム宣言受諾の責任もありとし、少しでもこれを救わんものと、昭和二十三年の終戦記念日に、カトリック教に入門し、物心両面に亘り、多大の奉仕を傾けました。昭和四十三年、ローマ法王庁より、大聖グレゴリオ勲章を贈られ、また彼の葬儀の際、彼の力で入門し、信仰の世界に入られた多くの人々が参会せられました」(『山紫に水清き 仙台陸軍幼年学校史』)


人物註
塚本清彦:43期。戦死して中佐進級。
山田成利:38期。兵備課長(終戦時)。
竹下正彦:42期。軍務課内務班長(同上)。父は竹下平作中将。姉は阿南夫人。戦後自衛隊に入り陸将。
井田正孝:45期。軍務局課員(同上)。男爵井田磐楠の養嗣子。戦後は生家の岩田に復姓。電通映画社常務。著書あり。
椎崎二郎:45期。軍務局課員(同上)。畑中と共に自決。
原四郎:44期。大本営参謀(同上)。戦後自衛隊に入り空将補。著書あり。
稲葉正夫:42期。軍事課予算班長(同上)。戦後防衛庁戦史編纂官。編著書あり。
島貫重節:45期。軍事課編成班長(同上)。戦後自衛隊に入り陸将。著書あり。三人の兄と弟も陸軍軍人。