昭和十年代の陸軍と政治・第5章

第5章 第一次近衛内閣における首相指名制陸相の実現 ―杉山陸相から板垣陸相へ―
トラウトマン工作打ち切りの模様については以前に書きました。
http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-238.html
まあそうやって自分で戦争続行に舵を切った近衛文麿首相ですが、元来が平和志向の上に、事変も軍部の一撃論者の言うほど簡単に行きそうもないと、すぐに気付きました。陸軍大臣杉山元は、北支へ出張するときも何をしに行くのか全然言わない。そういう態度に嫌気がさした近衛公は、彼を更迭しようと思い立ちます。後任候補に思い浮かんだのは、板垣征四郎でした。公は板垣と殆ど面識がありませんでしたが、板垣がかつて事変の不拡大を唱えた石原莞爾と極めて近い考えであるらしいという点が気に入りました。

ちょうど参謀本部でも杉山陸相に対する不満が高まっていました。参謀総長閑院宮殿下も、近衛公の希望を支持しました。そこで風見章は、第五師団長として北支にいる板垣と連絡を取るには、多田駿参謀次長に頼むのが一番の早道と考え、彼にそれとなく相談してみました。しかし多田は、杉山の更迭には賛成も、後任には序列から言って古荘幹郎台湾軍司令官が順当ではないかと言い、風見が「板垣はどうだろう」とそれとなく聞いても、あまり気乗りがしない態度でした。これは多田が風見を警戒してのものなのか本心なのかは分りませんが、困った風見は、多田に頼むのを諦め、別のルートを探しました。白羽の矢が立ったのは、風見のかつての同僚で同盟通信の古野伊之助でした。通信社の人間なら、戦地に板垣を尋ねても怪しまれないし、古野は板垣と面識があり、そういう意味でも適任でした。早速彼は青島に向けて出発しました。

一方中支の視察から帰ってきた杉山は、閑院宮梨本宮両殿下に呼び出され、陸軍大臣を辞めるように言い渡されました。これは近衛公の希望で、天皇陛下閑院宮殿下に頼んだことでした。びっくりした杉山は、帰って梅津と相談しました。自分たちが言ったのだから、杉山はすぐに辞めるだろうと考えた閑院宮殿下は、すぐに近衛公に連絡しましが、案に相違して、杉山はすぐには辞表を出しませんでした。5月に入り辞任することは認めましたが、後任には古荘を推しました。参謀本部は健康上の理由(脳溢血?)でこれを撥ね付けましたが、杉山はかなり粘りました。

山東省の陣中で板垣と会った古野は、陸相就任を要請をしました。驚いた板垣は、容易に首を縦には振らず、多田駿を代りに推薦したりしましたが、結局古野の熱情に絆され、承諾しました。古野は出発前に3つの条件を近衛公から聞かされており、それは「日本軍の華北撤兵」「日中戦争の収拾」「東条次官任命」でしたが、板垣はこれを飲んだそうです。

古荘を推して粘っていた杉山ですが、教育総監西尾寿造も板垣支持にまわったため、2対1で押し切られる形で辞表を出しました。このことについて杉山は原田熊雄に次のように漏らしています。

元来梅津にしろ自分にしろ、なんとかしてこの陸軍の統制を回復することに専念しておったのでありまして、そのために非常に評判が悪かったのでありますけれども、評判の悪い方が実際はよいのでありますということをよほど申し上げてみたが、どうしてもおきき入れにならん。どうも近衛総理は伝法肌の人が好きなんで、自分達なんかはとても駄目なんだ。

次官の梅津美治郎も非常に怒っており、滅多なことで感情を面に出さない彼が、海軍次官山本五十六に、近衛公に対する怒りを吐露しています。また彼の数少ない郎党であった軍務課長の柴山兼四郎が、近衛公の秘書官の岸道三のところに怒鳴り込んだりもしています。柴山は、支那事変初期に於いて、不拡大派として頑張っていた人物です。

さて最後にこの問題で一番の論点、東條英機の陸軍次官就任問題についてです。筆者は東條の次官就任の原動力として4つの説があることを示しています。
(1)杉山説(2)梅津説(3)板垣説(4)近衛説
このうち杉山と梅津は同腹のため1つに収斂できます。板垣も、近衛公の意を受けてのものであることが、古野の回想で分ることから、1つにできるでしょう。結局この問題は、辞任させられる杉山ー梅津ラインの人事か、近衛ー板垣ラインの人事かということになるかと思います。そして戦後流布する説は前者、つまり板垣ー多田ー石原のラインに掣肘を加えるための、杉山、梅津の置き土産であるという説が圧倒的です。近衛公自身そのように人に話しています。ところが当時人事局長であった阿南惟幾は、板垣が東條の次官就任を強く望んでいたと述べています。そこで筆者は結論として、板垣東條はワンセットで近衛公の希望であったのではないかとしています。

【感想】
板垣陸相は何も為すところが無く、東條次官も喧嘩の種にすぎませんでした。結局苦労したこの内閣改造は、大失敗だったわけです。そこで公は十河信二から言われます。
「板垣には石原を付けなきゃいけない。東條なんか付けるから駄目なんです」
なるほど東條が悪いのか。板垣が悪いとなると(ホントは彼も問題なのだが)、これを強く望んだのは自分なのだから責任の持って行きようがないが、東條なら、(これもホントは公が望んだことだが)杉山も梅津も反対しなかったので(と思われる)、彼らの責任にできる!まあこんなところでしょうか。少々公にとって酷すぎる想像ですが、しかしこういう節があの方の性格にはあります。

それでは東條という個人名はどこから出てきたのでしょう。板垣を取ると決めた公は鈴木貞一に相談し、彼から「板垣にはしっかりした人を補佐につけなければいけない」というサジェスチョンを受けています。このとき鈴木が東條の名前を出したかどうかは知りませんが、16期の板垣の下で次官が出来る(大臣次官が同期という例も無いことはないが)有能な軍事官僚というと、確かに東條(17期)か山下奉文(18期)しかおらず、東條が候補となるのは自然で、違和感は無いですね。当たり前ですが当時の東條は首相にも参謀総長にもなっておらず大東亜戦争もやってません(個人的には兵務局長今村均の抜擢も面白かったと思いますが、18期の阿南が人事局長をやっている以上、無理な人事でしょうね)。

結局のところこの時点では、東條の次官就任は、杉山、梅津からしたら板垣や後ろで糸を引く石原を抑えるために、板垣にとっては行政に疎い自分の有能な片腕として、近衛にとってはこれまた、石原派が力を持ちすぎることを防ぐために(この、妙にバランスを取ろうとするやり方は、彼の典型的手法)、四者四様ながら歓迎されていたと見て良いと思います。尤も参謀次長の多田は、石原の次官起用を望んでいたらしく、あるいは不満に思っていたかも知れません。東條と多田はこの後、激しく争うこととなります。

余談:風見章の日記が刊行されるそうですね。この問題の渦中の人物だけに楽しみです。また古野伊之助の評伝を注文しました。やはりあのあたりの人も抑えておかなくてはいけないと思うので。

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