ドキュメント13・1・15

昭和13年1月15日

午前9時 大本営政府連絡会議開会。

午前10時 閑院、伏見両総長宮ご着席。

−−−−まず広田弘毅外相から日支和平交渉に関する経緯につき説明。以下質疑開始。

軍令部総長宮(伏見宮博恭王)−−講和の話を耳にしたのは、昨年十一月八日(恐らく十二月八日の誤りであろう)と思うが、一体この話はいつ頃から始まったのか。

★ 広田外相−−成るべく速やかに支那事変をまとめんとして、英の意向を探っていた。そのうちに杉山陸相から、支那側の意向を質して貰いたいという話があったので、英国側から探りを入れたが、蒋介石の意向はよくわからなかった。当時九ヶ国条約の会議中で、これが英米独伊に対し事変の解決は、日支直接交渉の方法以外はとらない旨の内意を通じておいた。その後英米に斡旋してもらっては如何という問題が起こったが、当時英に対する日本の空気は甚だ不良だったので、英米からは斡旋を受けずと答えた。

参謀総長宮(閑院宮載仁親王)−−細目十一ヶ条が、支那側に徹底しているであろうか。個条書にしては如何。

★ 広田外相−−詳しく説明しておいたので、支那側もわかっていると思う。

軍令部総長宮−−今後例えば三、四ヵ月間において、当方の条件を全部容れて来ても、なおハネツケるか。

近衛文麿首相−−然り。

杉山元陸相−−蒋介石政権は知日派、抗日派等いろいろある。

軍令部総長宮−−それは判断ですね。

参謀総長宮−−十一ヶ条が伝わっているか。それに疑問があるを以て、短時日の期限を付して今一応確かめては如何。

★ 広田外相−−そこははっきりしないけれども、大体において伝わっていると思う。

★ 末次内相−−条件を書き物にして渡せば、世界に発表され内外言論のさらし物になるであろう。たとえ勅裁を経たものといえども、そこに困難があり支那側に真に和意があれば、四ヶ条を出した時返事が来るはずである。書き物として出すのは外交としても甚だ拙いと思う。これは蒋の戦術の術中に陥るものである。これは統帥作戦に影響があることだが、支那に対し和を求めることは、兵備が足らないというようなことから、ソ連から侮りを受けることになりはしないか。こうなっては、国家の前途に危険をかもすことになる。

参謀総長宮−−次長の意見は如何。

★ 多田駿参謀次長−−この回答文を機として脈があるように、何故されないのか。第一の解決の場合(注、国民政府を対手とする場合)を求めて本当にやろうとすれば、第二の場合(注、国民政府が和を求めて来ない場合)に移行した際に比べると、その時の各般の騒擾の方が遥かに大きい。

−−−−多田次長は広田外相の記録を述べて、これを敷衍して一々説明を求めたが、大部分は杉山陸相が恰も上官が部下に物をいうように弁駁して来た。そしてそうでなくとも、できるよう努力しなければならないと無責任な答弁をする程度であり、結局は「誠意があるか否かの水掛論」となった。

★ 多田参謀次長−−新聞に声明案をもらしたのぱ誰か。このようなものをもらすが故に、連絡会議が延びれば、首脳部が内輪割れしていることを暴露し、このように大切な問題を一、二時間を争って決めねばならなくなるに至るのである。

★ 近衛首相−−発表したわけでも、また洩らしたわけでもない。新聞記者が判断して書いたものであろう。

★ 古賀峯一軍令部次長−−新聞発表は全く困る。戦が長びけば戦力、戦備が衰え、海軍も戦備が衰えれば、大陸経営または満州の経営も開発も出来なくなる。

★ 末次信正内相−−それならば、先般ご裁可を仰いだ長期戦が出来ないというのか。

★ 古賀次長−−それは言葉が足りなかった。困難になるという意味である。

−−−−正午少し前に両総長官に退出。

★ 多田参謀次長−−次のように政府に要望する。

  1. 支那側に条件およびわが方の考えを確実に知らせること。
  2. 日支間の長期戦争については、極めて慎重に考えること。
  3. それらのためには、あらゆる手段を尽くすこと。特に十一ヶ条を書き物で示すこと。
  4. トラウトマンの言は、日本の意志なることをはっきり示すこと。
  5. 人は何時までに出すのか、それとも出さないのか、はっきり返事のこと。
★ 多田参謀次長−−なお尽くすべき手段が残っているではないか。

★ 古賀軍令部次長−−支那側が大急ぎで返事を出した点からみて、和平の希望があるであろう。

★ 米内光政海相−−交渉の見込みありや否やの判定は、外務大臣の責任である。外相が見込みなしと判断すれば、打切りの外はあるまい。

−−−−これにて午前の会議は終了した。



午後1時 参謀本部

−−−−午前の連絡会議から参謀本部に帰った多田次長は、戦争指導班長高嶋辰彦中佐を呼んで、会議の情況を説明した。高嶋中佐が従来の主張を述べたのに対して、次長は「それは全部午前中に述べた」と答えた。途中から本間雅晴第二部長も同席した。

本間雅晴第二部長−−第一案として、今一応独大使に十一ヶ条を確認し、二十四時間以内に回答を求める案、第二案として、一応打ち切り声明は二、三日延ばして内部工作する案、の二つをもって午後の会議に臨んでは如何。

★ 高嶋辰彦中佐−−許大使に直接示す案、十一ヶ条には必ず前文を付ける案でなければいけない。

★ 多田参謀次長−−内閣総辞職を誘発しても差支えないのは、純理論として正にそうであるが、国の内外に及ぼす影響は極めて重大で憂慮に湛えない。

★ 高嶋中佐−−少なくも午後の会議においても議事を保留して、今後行なわれるであろう御前会議で、政府と争うべきです。なお、もし午後の会議で政府案に同意せらるるならば、秩父宮殿下に対し、次長より直接ご説明あるべきでしょう。

午後2時 戦争指導班

−−−−他の部員らが不安気な面持で待っていた。秩父宮もやや蒼白な表情であった。高嶋中佐は多田次長からの報告を班員一同に説明した。最後に状況すでにわれに不利と判断し、あとは多田次長が何処まで頑張れるかが問題である、という結論になった。

秩父宮殿下−−私が直接多田次長に意見具申したいことがあるから、連絡せよ。

午後2時半 参謀次長応接室

−−−−多田次長は秩父宮との会談に、下村第一部長病欠のため河辺作戦課長を同席させた。

秩父宮殿下−−大臣と次長が連袂辞職するか?

★ 多田参謀次長−−良い者が悪い者と一緒に辞職する必要はないものと存じます。

秩父宮殿下−−(和平か戦いかの両国民族の将来に及ぼす重大性についての信念を、道義の上に立って懇切丁寧に直接多田次長に述べられ)この重大な案件を、是非とも御前会議にかける必要がある。陛下の清らかな御心の鏡にうつして、その御判決をお願いすべきである。

★ 多田参謀次長−−(深刻な面持で静かに傾聴していたが、やがて感激の色を面に現わしながら)御前会議を奏請して陛下の御採決を抑ぐの件については、反対です。如何に国家の重大事とは申せ、文武当局の意見が合わぬとて、陛下の御採決を仰ぐというのでは、いっさいの責任を陛下に負わせる態度であり、輔弼の重責を放棄する違憲の行為です。如何に殿下の御意見なればとて、この件ばかりは従いかねます

秩父宮−−(黙然と聴かれていた殿下は深くうなずかれ)よくわかりました。他に申すことはありません。

★ 多田参謀次長−−(秩父官殿下を廊下までお見送りし、やがてぽつんとつぶやくよう)ありかたいことだ。

−−−−この頃陸軍省首脳の間では、大臣の人事職権によって、統師部首脳の更迭をやるべきではないかとの意見も出ていた。

午後2時半 戦争指導班

★ 中島鉄蔵総務部長−−くだらぬことにて内閣総辞職となれば、大問題を国外に暴露し、全く蒋の手に乗るものではなかろうか?

★ 高嶋中佐−−協定が出来れば一番よいが、もし出来なければ、内閣の総辞職位は問題とならないであろう。



午後3時 大本営政府連絡会議再開

−−−−午前中の連絡会議では、支那側の誠意か否かをめぐり、主として政府側の杉山陸相と多田参謀次長の論争となり、陸軍の内輪喧嘩という珍現象を呈した。そして多田次長は、四面楚歌の中で孤軍奮闘することになった。再開された連絡会議においても、政府側の交渉打切り論に対して、多田次長の交渉継続論がむし返し論戦となった。

★ 多田参謀次長−−とにかく、これは非常に重大問題であり、和平解決の唯一の機会であるから、決めた日時までに返事が来なくても、一日か二日待っていてもよいではないか。すなわち、向う側が返事をくれるまで待っていてもよいではないか。

★ 杉山陸相−−期限までに返電が来ないのは、国民政府に和平を図る誠意がないのだから、蒋介石など相手にしておってはいけない。屈服するまで、作戦を継続しなければならぬ。

★ 広田外相−−自分は今まで外務大臣として、将又外交官としての長い経験から、このような返事を寄こしたことは、すなわち支那側に全くこれに応ずる誠意がない。こちらの要求に応じて和平解決を応諾する、という腹がないことを示すものであると確信する。次長は外務大臣を信用せぬのか。

★ 近衛首相−−とにかく、早く和平交渉を打ち切り、わが国の態度をはっきりさせねばならない。

★ 多田参謀次長−−何故二、三日の余裕を与えることが出来ないのか?

★ 米内府相−−外交の輔弼の責にある外相が、もはや和平交渉に脈はないというのに、統師部が脈があるというのは何故か。政府は外相を信頼している。統師部が外相を信用せぬのは、同時に政府不信任であり、これでは政府は辞職の他ない。

★ 多田参謀次長−−内聞は総辞職で片付くも、軍部には辞職はない。明治大帝は、朕に辞職はないと宣われた。国家重大の時期に、政府の辞職云々は何事ぞや。

−−−−多田次長の声涙共に下る所論に一座しんとなって、会議は一時停頓した。

★ 近衛首相−−とにかく休憩して、各自帰って一度考えてから集まろう。



戦争指導班

★ 高嶋中佐−−(秩父宮殿下に対し)今日のところはまず大丈大と思いますので、御別邸へお帰りになって御休息していただきたい。

秩父宮殿下−−大事なときなので帰るわけにはいかない。

★ 堀場一雄少佐−−われわれはいかなる手段を行使しても、政府の要求は必ず防ぎます。どうか御安心下さい。

秩父宮殿下−−それではくれぐれも頼みます。

参謀本部

−−−−次長は参謀本部に帰って中島総務部長、本間第二部長、河辺第二課長と凝議した。その最中、中島総務部長の元を陸相秘書官の山本茂一郎中佐が陸相の伝言を携えやってきた。

★ 山本茂一郎中佐−−参謀本部が承知しなければ、近衛内閣は瓦解してしまう。近衛首相も辞職の決心をもっている。何とか総務部長から善処して貰いたい。

−−−−そこへ心配した軍務局長の町尻量基も訪ねてきた。

★ 町尻軍務局長−−近衛内閣が辞職するようだが、それが内外に与える影響が非常に重大であると思う。今日の問題で次長が承諾してくれぬと、どうしても内閣は瓦解してしまう。何んとかならぬか?

−−−−これらの意見を聞いた中島総務部長は、本間、河辺と共に次長室に戻り意見具申した。

★ 中島総務部長−−この事変中に内閣をしばしば替えるということはいけない。ことに支耶側の電報一本で内閣が凡解するということは、これは国家として非常に不利だ。今日のところは、参謀本部が譲歩すれば、内閣が継続してゆくのであるからよいのではないでしょうか?

★ 多田参謀次長−−交渉打ち切りは嫌だ、長期戦は嫌だ、しかし近衛内閣の崩壊はなお嫌だ。

−−−−こうして次長は「参謀本部としては、この決議には同意しかねるが、しかしこれがために内開が瓦解するということになれば、国家的にも非常に不利であるから黙過し、敢えて反対はしない」という立場をとることに決定し、連絡会議へ戻った。その間、戦争指導班への説明は無かった。



午後5時 参謀本部

−−−−連絡会議が終わり、多田次長が悄然と参謀本部に帰ってきた。そして高嶋、堀場両部員に本日の結末を説明した。

★ 多田参謀次長−−大本営陸軍部は、本案件に関しては政府に一任した。

★ 堀場少佐−−(血相を変え)ことは極めて重大であります。このような場合こそ、殿下の言われたとおり、御前会議を奏請すべきであります。

−−−−多田次長は、再び両参謀の主張する、この時こそ統帥権独立の妙を発揮すべきものとして、近衛首相の上奏する以前に、統師部の真意を上奏すべきであるという進言を承諾した。その上奏内容は次のとおりである。
   1. 蒋政権否認に関する本日の連絡会議決定は、時期尚早にして統帥部として不同意なり。
   2. 然れ共政府崩壊の内外に及ぼす影響を慮り政府に一任せり。


★ 堀場少佐−−(清水規矩侍従武官に電話で)近衛首相の参内は何時でしょうか?

★ 清水武官−−7時半の予定である。

★ 堀場少佐−−参謀総長宮が上奏することがあるので、必ずこれが首相の上奏の先になるようにお願いします。

−−−−このころ首相官邸では閣議が開かれ、翌日に発表されることとなる声明文の審議が行われていた。

午後9時 参謀総長と高嶋中佐が参謀本部を出発した。

午後11時 参謀総長の上奏が終わった。しかしこれより前に、近衛首相の上奏は終わっていた。一方河辺課長は葉山の秩父宮殿下の元へ向かった。

秩父宮殿下−−まことに残念だが、決定してしまったのではやむを得ないですね。遅くまでご苦労でした。



昭和13年1月16日

(第一次)近衛声明が発表される。
http://www.archives.go.jp/ayumi/kobetsu/s13_1938_01.html

★ 松△アナ−−その時歴史が動いた