蟻の兵隊

池谷薫蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』新潮文庫

数年前に映画の方が少し話題になった『蟻の兵隊』が文庫で出た。数年たった今でもこの問題、つまり山西省残留日本兵への補償問題は全然解決していない。少しでもこの問題の周知に資するならと、取り上げる。

山西王とも言うべき閻錫山は、日本兵1万人は中国兵10万人に匹敵するという考えの持ち主だった。迫りくる中共軍を前に、己の弱卒をながめれば、日本兵の獲得は必須であった。

第一軍司令官澄田ライ四郎(ライは貝偏に来)はフランス駐在経験もある理性的な軍人で、北部仏印進駐の後始末を任されたこともあった。第一軍参謀長山岡道武は一貫してロシア畑を歩んだ人物で、ソ連がその身柄を欲していた。二人とも日本軍人であるから、赤化防止ということには一定の考えがあっただろうが、それにしても身命を賭してまで八路から山西を守ろうという信念はなかった。彼らが閻に協力したのは、一重に我が身かわいさからであった。

山西産業社長だった河本大作は、上記の二人よりはずっと積極的であった。彼の場合は、日本に帰っても身の置き場がないということもあっただろうが、結局脱出せず、落城まで太原に留まった。もっとも甥の平野零児は、彼が中共の虜囚となった後、収容所で「台湾侵攻作戦の手伝いをしたい」というような軽口を叩いているのを聞いている。軍人としての不完全燃焼感がこういう発言に繋がるのだろうか。

部隊長級で積極的に残留を推し進めたのが、元泉馨であった。彼については、交流のあった楳本捨三が評伝を書いているが、資料としてはちょっと使い難い。あの本がある程度核心を突いているとすれば、戦後の元泉はやや捨て鉢になってたような感じもするが。しかしそうであるなら、巻き込まれた兵隊はたまったものではない。後に敵の包囲下で負傷し、部下に自らを討たせた。

若手でありながら、重要な役割を果たしたのが、岩田清一と城野宏だった。岩田は職業軍人だったが、城野は素人だった。岩田は捕虜となり、収容所で病死したが、城野は長い抑留生活を生き抜き、帰国した。

上記の人々に比して、比較的好意的に描かれている人物もいる。後に十総隊司令となる今村方策である。彼については、オリンピックの乗馬の代表選手であったという記述があるが、これは今村安と取り違えている、と思う。どちらも今村均大将の弟であるが。今村は暖かい人柄で、指揮能力も高く、人望があったという。彼ほど高い地位にいた人物でも、手紙を検閲され、情報統制を受けていたことが、彼が妻へ送った手紙から伺える。統制をかけていたのは、澄田や山岡であった。太原陥落時に毒を呷った。最後に「閣下に騙された」と言い残したとも伝えられる。

第4章の主役は宮崎舜市中佐である。総軍から派遣された宮崎参謀は、閻錫山と第一軍の計画を見抜き、これを阻止しようと奮闘した。第一軍幹部との連絡会議に臨んだ宮崎は、全員の帰国を強く訴えた。それに対し山岡少将は、受降長官である閻錫山の命令がなければ動けないと言を左右にした。遂に堪忍袋の緒が切れた宮崎中佐は、「参謀長閣下、閣下は閻錫山が天皇を殺せと言えば殺すおつもりですか」と、激越な一言を放った。一座は粛然とした。澄田軍司令官はその間一言もなく、残留を主導していた岩田参謀もまた同じであった。連絡会議に出席した北支方面軍の笹井大佐は、「軍司令官が自ら決心して戦犯として残るという確固たる決心があれば、残留者は多くは出なかったろうと思われる」と書いている。会議の最後に宮崎は次のような演説をしたという。

いま、軍司令官以下第一軍首脳の最大の任務の一つは、隷下兵団を完全無欠の状態で速やかに復員させることである。これが陛下の赤子をお預かりし、必勝を信じて戦ってきた派遣軍の最後の務めであると信じている。言い換えれば、兵隊をその妻子親兄弟のもとに無事届けることである。もし、終戦後における中国の内乱の渦中に投じ、戦死者、戦病死者が出たような場合は、何と言ってお詫びしたらよいのか。
 部隊長が残留を希望するような場合には、その部下の大隊長、中隊長が義理で残留することになり、またその部下も義理を立てて残る。本当のところ帰りたいという兵隊まで残るということになるが、それは罪悪である。部隊長として残留を希望するならば天津まで部下を連れて出て、その部下が無事に復員船に乗船するのを見届けてから、再び山西に取って返し自分の志を果たすべきである。
 帰還に関する限り、軍司令官から一兵卒に至るまで、思想を統一して相手側と交渉すべきものと思う。このようにしなければ、到底順調な帰国はできないと信じる