沖縄返還密使 覚悟の死
朝日新聞3月11日朝刊
1996年7月27日、福井県鯖江市。高台にある若泉氏の自宅に知人らが集まった。「他策」の英訳版作成にあたり、同氏と訳者、編集者らが合意を確認するためだ。
がんに侵され、ベッドにいた。「これで思い残すことはない」。会議は終わり、弁護士の田宮甫さん(76)、県商工会議所連合会の鍔渕信一さん(62)の2人が残った。若泉氏は天然水を勧めた。
自らも飲みながら、何か口に入れたように見えた。途端にむせかえり、嘔吐し、体中がけいれんする。毒薬を飲んだらしかった。「核密約」から27年。66歳。死因は「がん性腹膜炎」と公表され、遺言により告別式は行われなかった。
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佐藤栄作首相のもとで交渉にかかわったのは67年。京都産業大教授で、まだ30代だった。米首脳らとの人脈を生かし、佐藤首相とジョンソン米大統領の会談で沖縄返還に道をつなごうと尽力する。交渉が山場を迎えた69年、難航していた沖縄配備の核兵器の扱いを巡り、キッシンジャー大統領補佐官とひそかに交渉。連絡には偽名を使った。
若泉、キッシンジャー両氏が打ち合わせ、佐藤首相とニクソン大統領が署名したのが機密の「合意議事録」だ。米国が返還時の「核抜き」を実施する代わり、日本は有事の再持ち込みについて「要件を遅滞なく満たすであろう」。非核三原則とは相反する。
「決定的なことをやってしまった。あとは歴史の評価を待つしかない」。父の言葉を長男の聡一郎さん(50)は記憶している。東京から故郷の福井に帰ったのは80年。そのころから秘密交渉の経緯を本にまとめることを考えていた、という。
文芸春秋の編集者東眞文さん(67)が鯖江市に若泉氏を訪ねたのは、その12年後。詳細につづられた文章の気迫に、東さんは真実と確信する。
題名は日清戦争の時の外相、陸奥宗光の「蹇蹇録」の一節からとった。秘密交渉はやむを得なかった、しかし、本当にそれでよかったのか、との苦渋がにじむ。
「沖縄に申し訳ない」。若泉氏が何度も口にした言葉だ。戦争で占領された沖縄を取り戻す交渉は、容赦なく裏取引を迫られる過酷な外交の「戦場」だった。復帰はしたものの、沖縄は過密な基地の重圧を受け続け、本土の人々はやがてその現実に目を向けようとしなくなる。
94年5月、「他策」出版。国会での証言を切望し、喚問があるはずと考えていた。だが呼ばれることはなかった。
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若泉氏は沖縄での遺骨収集に参加し、戦没者を悼む6月23日の慰霊の日にも毎年のように訪問していた。
同年6月に書いた「嘆願状」と題した便箋5枚が残っている。沖縄県民や当時の大田昌秀知事にあてたものだ。日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します」。「自裁」は自決を意味する。
晩年、気にかけた基地問題は15年近くたった今もほとんど進展がない。密約をあえて公にした理由は何だったのか。著書巻末の「跋」にそれがうかがえる。「日本は『戦後復興』の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り、その結果……いわば”愚者の楽園”と化し、精神的、道義的、文化的に”根無し草”に堕してしまったのではないだろうか」
死去後、遺骨は沖縄の海に散骨された。
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