今日のBEはネタが豊富

磯田道史の「この人、その言葉」より

いや国民にあの意気があってくれたので外交ができた。
国民の士気さかんなるものあり国家の前途また洋々たりである。


戦争末期、国民はロシアに勝ったと思いこみ熱狂の渦。だが実際の日本は継戦能力を失い、とても賠償金がとれる立場ではなかった。だが国民はそんなことはわからない。賠償金がとれなかったと交渉役の小村を攻撃。一部は暴徒化、内務大臣官邸などを焼き打ちした。小村は家族は焼き殺されるものと覚悟していたらしく、米国での交渉から横浜港に戻り、息子の顔をみるや「生きていたのか」といったという。 ここまで国民にひどい目にあわされた小村だが「焼き打ちには弱ったろう」と新聞記者古島一雄に聞かれ、冒頭のように、きっぱり答えた。「えらいやつだと思った」と、後年、古島は涙ながらに語っている。実は焼き打ちのときの扇動ビラを刷ったのはこの古島であった(新名丈夫『政治』)。

では古島の『一老政治家の回想』を見てみよう。

(陸)羯南は兵力の不足と政府の内情も承知していたから穏和論をとなえておったが、われわれは不平でたまらんから、例によって国分青崖などをおだてて激烈な煽動記事を掲げる。雑報にも煽動記事を掲げて頻りに民心をあおっていた。当時日比谷でばら撒いた宣傳ビラなどは、實は僕が大竹貫一、寺尾亨らの連中から頼まれて、日本新聞の印刷場でそっと刷らしたのであった。だからして社説と雑報の記事がまるで反対になるというような不統一を来たす。温厚なる陸がついに腹に据えかね、「僕を何の地に置かんとするか」と手紙をよこしたのはこの時である。
かくのごとく世間で講和條約に対する攻撃が強かった時、ただ一人杉浦(重剛)は堂々小村の誹謬論を弁護論をやった。そこで僕は早速杉浦を訪うてこれに反対論を試みた。ところが杉浦は平気で、「目下日本の外交界で小村以上の者が一人でもおるか。その第一人者たる小村がベストを尽くして決行したのがこの條約である。目下の國際情勢に対し何を根拠として君等は反対するか。僕は小村に対して全幅的に信頼している。これは小村に一任するほかはないのだ」と断乎として小村を庇護した。僕はあの温厚なる杉浦が断じて小村の條約を信ずるといったその信念、人を信ずる力がどのくらいえらいものであるかということをその時しみじみ知った。

()内は引用者。更にもうちょっと。

小村が新橋駅に降り立ったとき、その護衛は巡査に委せず、山縣、桂、山本、寺内が人襖をつくり、身を以って小村を庇いながらプラットフォームを歩いていたのを見、一種悲壮の感慨に打たれたのを覚えている。

逆風満帆は須藤元気の最終回。

「選挙の結果がこうなれば面白い、という構図を考えて後押ししちゃう。それが今の無党派層の投票パターンですね」
担当教授の花岡信昭(63)が、前日に行われた静岡県知事選の結果を引きながら説明する。
それをうなずきながらメモする約30人の大学院生。半分以上は仕事を終えて来た社会人で、須藤元気(31)もその一人だ。
産経新聞で長く政治記者を務め、大学で教えて約10年になる花岡は、自他ともに認める保守派の論客である。政治を学ぶ須藤の姿勢を「ピュア」と表現する。
「政治に対してものすごく純なもの、前向きなものを、悩みながら持っている」
現実政治のドロドロした面を詳しく知っている花岡は、むしろ須藤のそうした部分にこそ期待を抱き、自分の知識を注入することに喜びを感じるという。
一方で「ピュア」は現実から遊離する危険もはらむ。
将来の選挙への立候補も視野に入れる須藤が、現実の政治の世界で通用するかどうかは未知数だ。具体的な政策課題について詳しくないことを自分で認めつつ、こう反論する。
「局地的なものを扱っても、しょうがないと思う。信頼を失った今の政治や行政の根っこを変えれば、すべてはいい方に変わっていくはずです」
いつも柔和な須藤の表情は、政治を語るときだけ少し鋭くなる。

おやこんなところに花さん。しかし北海道に家もって月に二回帰るってふざけた生活だな。日給12万円で管理人にしてくれ。