続・在日華人天安門記

6月8日朝日朝刊

「日本は民主や自由を掲げているはずなのに、守ってくれなかった。そう感じている元留学生は僕だけじゃない」
89年の天安門事件当時、大阪大大学院で社会学を研究していた趙京さん(46)の言葉に憤りがにじむ。
中国政府の国費留学生だった趙さんは、事件後に発足した民主化組織の関西地区代表を務めた。旅券の更新期限が迫った91年夏、大学当局に相談すると、指導教授から中国総領事館あての「反省文」への署名を求められた。「学業以外の活動に没頭し適切でなかった。今後は学業に専念する」。そんな文面だった。

ここで一旦ストップ。この教授がアカの手先か?続き。

この出来事について、指導教授は「痛い記憶だ」と振り返る。民主化運動に取り組む趙さんに、中国当局奨学金打ち切りなどの圧力をかけた。趙さんの旅券が更新される見込みはなく、指導教授は総領事館に何度も働きかけたが、無視され続けた。
途方に暮れていた91年8月ごろ、指導教授は奇妙な体験をした。
研究室に一本の電話が入った。男の声で名前も言わず「ちょっと来て欲しい」。趙さんの件だ、とピンときた。大学から遠くない指示された場所に急ぐと、看板もない殺風景な事務所だった。奥にいた日本人の初老の男は、机の上のファイルを開いて見せた。趙さんがいつ、どんな集会に参加しているのか、詳細に記録した資料の束だった。
「指導教官失格ですな」。男は決めつけ、「日中友好にひびが入りますよ。総領事館に謝罪した方がいい」と続けた。そして趙さんが反省文を書くこと、邪魔が入らない深夜に総領事館を訪ねて謝罪すること、の2点を助言した。
数日後の午前0時過ぎ、総領事館に行って頭を下げた。そして、反省文をつくって趙さんにサインさせ、総領事館に送った。まもなく旅券の更新が認められた。
男の正体はわからない。指導教授は「早く事態を収拾しろ、というのが権力の意向だと理解した」と振り返る。

むしろ逆だね。しかしどっちのキャンパスにおられたのかによるけど、豊中だとしたら、知った場所だけに何か不思議な気分。公安か中共のエージェントか知らんけど、そんなのが居る場所があっただろうか?

趙さんは95年、日本での生活に見切りをつけ、米国に渡った。いま「中国政府の顔色でなく、僕という個人に向き合ってくれそうだと思ったからだ」と理由を語る。
日本政府は天安門事件以後も、人権問題で中国を批判するのを控えた。趙さんの件があったころ、海部首相が西側首脳として事件後初めて訪中し、一時凍結した円借款の本格再開を表明。対中関係の全面修復にかじを切った。
当時、外務省アジア局長だった谷野作太郎・元中国大使は「中国を締め上げることがアジアの平和と安定につながるのか。将来的に中国を国際社会にどう位置づけるか。隣国としての第一の課題だった」と振り返る。
青山学院大の高木誠一郎教授(国際政治)は「日本が中国の人権批判を控えた理由の一つに、歴史問題があった」と指摘する。中国政府に戦時中の日本軍の行為を持ち出されないか、との懸念だ。

私もそうだけど日本人は、何かあると「ワーッ」となるけどすぐ忘れる。天安門もそう。例外的に、中共攻撃の道具として十年一日天安門天安門繰り返す人もいるけど、そういう人たちとて、実際に迫害されて日本に逃れてきたこういう人たちに、どれだけ心を遣えているのか。むしろ中国人というだけで犯罪者予備軍のように決めつけ罵っていないか。