奇をてらわず(二)

伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

支那方面軍が編成され、寺内寿一が軍司令官に親補された。寺内に下された勅語を起案したのは美山であった。

「朕卿ニ委スルニ 北支那方面軍ノ統率ヲ以テス 卿宜シク宇内ノ大勢ニ稽ヘ 速ニ 敵軍ヲ平定シ 威武ヲ四表ニ発揚シ 以テ朕カ望ニ副ヘヨ」

参謀総長の裁可を貰ってこれを侍従武官府に持って行ったところ、騎兵大佐の侍従武官は、

「この『敵軍』の二字は面白くない。今度の北支方面は不拡大方針であって作戦目標も限定され、さように作戦任務も出されているのだから」

といって突き返してきた。しかし美山も参謀総長の裁可まで貰っているのでおいそれとは引き下がれない。この先輩に対して

「およそ軍隊を動員して外地にご派遣になる以上、敵軍なくしてご派兵ということはあり得ない。『敵軍』を削除するということはどうも納得しない」

と押し返した。美山の気迫に押された侍従武官は、黙って退出し、ほどなく御裁可を貰ってた。

参本に帰って上司の武藤章に報告すると、武藤は

「美山もたまにはそんなことができるか」

と冷やかしながら褒めた。寺内も出征前の祝宴で、

「今度は作戦命令では抑えられているが、勅語ではすっきりしている。自分は勅語によって方面軍を統率する」

と語った。美山はそれを聞いて密かに面目を施したが、後世の知識で以て判断した場合、侍従武官の考えも一つの見識であったと言えるだろう。一方美山の態度を伊藤氏は、

事務の前例踏襲と手続きの一事不再議という自分の狭い判断とプライドにこだわっていたと言わざるを得ない。
まだ仕事を覚えるのに必死で、複眼的に見渡す余裕などなかったのであろう。一人ひとりの軍官僚によるこうした小さな「踏み外し」の集積が、日本軍全体の大きな錯誤へ行き着いたとも言えるのである。

と書いている。

この騎兵の侍従武官は、陸大教官として令名があった四手井綱正だろう。彼は昭和20年8月18日、台湾の飛行場でスバス・チャンドラ・ボース自由インド国家主席とともに事故死した。