奇をてらわず

伊藤智永『奇をてらわず 陸軍省高級副官 美山要蔵の昭和』講談社

美山に関しては既に『廃墟の昭和から』という、彼の日記を元にした本があるが、本書はもっと正当な評伝で、特に戦後の靖国神社千鳥ヶ淵墓苑の問題について詳しく扱っている(この辺は『廃墟の昭和から』の編者の甲斐氏はぼやかしていた)。2005年のNHKスペシャル靖国神社〜占領下の知られざる攻防』で、美山がA級戦犯合祀の責任者として描かれたことが、いかに誤りであるかも、きちんと描かれており、ご家族の方も満足だろう。ここでは私が気になった箇所を摘要して、感想を書いていく。

美山は陸士35期の騎兵であった。西田税は同じ兵科の一期先輩で、仲が良かった。西田は美山を仲間にしたかった。美山は迷ったが、結局軍人として生きる道をとった。西田はそんな美山に「十年の戀(こい)が一日にして醒めた」と吐き捨てた。昭和32年、美山は彼のことを想い、『十年の戀一日に醒む』という文章を書いている。その中で北、西田の判決文を筆写しているが、走り書きの文章は、「被告人西田税」と書き付けてから一変しているという。伊藤氏によればそれは極細のペンで原稿用紙40ページ、一万三千文字。一画一画をおろそかにしない気迫のこもった文字で、一字の書き損じも、訂正もない。ほかの日記やノートにも見られない異様な集中力で書かれた文章は、非業の死を遂げた鎮魂の写経であろうと。もとよりそのような注記があるわけではないが、見るものにそう確信させずにはおかない迫力があるという。

美山が参謀本部の編成動員課に勤務しているときに北支事変が起きた。ある日、不拡大論の作戦部長石原莞爾を戦線拡大派のロシア課長と支那課長が囲んで突き上げていると、不拡大派の動員班長が議論に加わり、石原に加勢し始めた。

そこへ作戦編制課長の武藤章が割って入り、部下である動員班長に対し、「お前なんかそんなことを言う資格はない。あっちへ行け」と耳を引っ張って追い立てたという。

ロシア課長は笠原幸雄支那課長は永津佐比重だろう。不拡大派の動員班長というのは二見秋三郎。後に第17軍参謀長としてガダルカナルの戦いに臨んだが、そのときに消極的な報告をしたことから、更迭され予備役に入れられてしまった。この辺の経緯は、亀井宏氏の大著『ガダルカナル戦記』に詳しいが、亀井氏は、二見は、取材であった軍人の中で最も鮮烈な印象を受けた一人であったと書いている。

『二見参謀長の意見は、非常にむつかしいということのようだが』という報告だけはした。しかし、当時はね、後期と違って、東京ではそういう考えは微塵も持たなかったですからね。とにかく、何がなんでも奪ると、そういうことが重なってね。それじゃ二見参謀長じゃこりゃ弱くて、ガ島奪れんかもしれん、ということになったんですね。それを、ただ更迭するだけならまだしも、そんな弱い奴は陸軍にゃ要らん、ということになっちゃって、予備役にしちゃったんですね。いやあなた笑うことはない、僕はこれにゃ本当に吃驚してね。僕の報告が悪かったのかと思って、いろいろ聞いてみたんだが、そうじゃないんだ、前からいろいろ経緯があるんだということでね

ガダルカナル戦記』より、語り手は井本熊男。陸軍も後々悪いと思ったのだろう、後に召集して、終戦間際には少将のまま師団長(心得)にした。少将の師団長は二見を含めて三人だが、あとの二人、久米精一、片倉衷は正真正銘の少将。二見は更迭されなければ中将であった。