澄田中将

日曜日のNHKスペシャルでちらっと出てきた山西の第39師団の師団長は澄田らい四郎中将*1であった。澄田はその後、第1軍司令官となり結局昭和16年から終戦まで山西省で閻錫山の相手をすることとなった。そもそも陸大を主席で卒業し、フランスの陸大にまで入った秀才が、何で田舎の兵団長に終始したかというと、本人はこれは東條の逆鱗に触れたせいだと思ってたようだ。その経歴を買われ、西原一策*2の後を受けて仏印派遣団長となった澄田は、南部仏印進駐が重大な事態を引き起こす可能性を見抜いていた。そこで東條に対し

「日本が南部仏印に進駐すれば、おそらく全面戦争になるでしょう。そのご覚悟の上の決定ですか」

と直言したところ、東條は激怒したという。海軍の大井篤も、西原や澄田のような人が良識ある人が陸軍部内で幅を利かせてくれたらと期待したが、全然あてが外れたと書いている。尤もいくら先見の明があったといっても、彼が山西省残留問題の責任者の一人であることに変わりはないが。

澄田らい四郎『日本陸軍史夜話』歴史と人物61年冬号

ところが今度の事変では、どうであったか。極端な表現だが、日本軍は、事変の出だしから、隠れもないあの南京虐殺事件は、論外としても、残念ながら掠奪、放火、殺人(強姦)、虐殺など、あらゆる悪業の仕放題だったといってよい。これは、忌憚なくいえば、事変当初において、反転に方り、敵に抗戦基地を残さないために、一部都市の焼却命令を出した軍司令部や、或は中国側の排抗日態度膺懲のため、わざと部落放火を命令した某々師団長等にも勿論大いに責任がある。だが、本来こんなことが許されてよい筈はない。遅蒔きながら、これではならぬと気がついた軍司令官や師団長などの高級指揮官は勿論、心ある下級部隊長も一斉にこれら悪業の徹底的追放を叫び、軍紀風紀の粛正に大いに努力はしたものの、所詮犯罪の根は深く、これが根絶は愚か、その減少さえも容易ではなかった。

蓋しこれ等の悪業は、累次に亘る復員や部隊の交代で戦地から内地に帰還した兵士達の口から口へと、面白可笑しく新に出征する兵士達の耳へと口伝されて、戦場では寧ろ日常茶飯事、当然のことのように思われていたのであるが、その根源は、なお深いところにあって、例を掠奪に取ると、この原因の大きい一つは、軍上層部の作戦指導の基本観念に欠くるところにあったといえる。孫子の兵法には《糧を敵に求めるのが、戦争の上策である》としているが、ただ戦に勝つだけの昔の戦争ならいざ知らず、近代の戦争殊に日華事変などのように、ただ敵を倒すだけでなく、寸毫も犯すことのない厳粛な軍紀で、他の民族をして吾に悦服せしめることを、絶対必須の条件とする政略戦争にあっては、作戦に方りただ弾薬だけでなく、糧抹も掠奪に等しい徴発手段による補給を避け、追送によって必要な糧道を確保しておくべきであったのだ。ところが、我が軍上層部は、この大切な着意を欠き、ただ単に力をもって敵を屈服することのみを急いで、毎回殆ど徴発即掠奪の方式をもって糧秣を補給しつつ作戦を行わしめることとしていた。

上司から命令したのが徴発であり、否〔然〕らざるものが《掠奪》だなどという理屈が、兵隊さんに呑み込める道理はない。兵士達は、こんなことから、自然掠奪が、大した悪事ではないという気持を持つことになり、一事が万事、延いては良心の麻痺を来して、軍紀風紀の頽廃を生じ、遂に放火、殺人(強姦)果ては虐殺なども、さほどの悪業とは、思わないような心境に立至ったと推するのは、筆者の僻目だろうか。 筆者もまた出征中、これ等悪業の絶滅に応分の努力をした一人だが、偶々一作戦を終って反転、原駐地に帰還の途中、ある日不図気がつくと、恐らく何かよい獲物を捜すためであったであろう。数名の兵士が、隊列を離れて遠い民家まで行き、家に入って数分の後、家から出てきてしばらく、民家から火の手が上った。そしてその兵士達が隊列に帰って、《戦争に来て家位焼かないで、何の面白いことがあるものか》と語り合っているのをこの耳で聞き、唖然として口の塞がらなかった体験がある。これが当時における所謂《皇軍》の一般兵士達の偽らざる普遍的な心情であり、その根底は、容易に抜き難かった。

とまれこれら日本軍の厭しい悪業は、殆んど病膏盲に入り、常習的のものとなって、そのまま第二次世界大戦に突入、こんどは中国以外の所謂大東亜共栄圈と呼ばれた新占領諸国における軍にまで引き継がれ、追っては敗戦後部下の非行の責任を背負わされた多数の指揮官達が、理不尽にも戦犯として、軽くも囹圄の辱しめを受け、甚だしきは刑場の露と化する破目に陥いったのである。これでは新附の民を悦服せしめるなどは思いもよらず、徒らにその対日反感を敬るだけ。《八紘一宇》とか、《聖戦》乃至は《皇軍》などと、勿体振ったお題目が泣く。

換言すると、日露戦争においては、出征兵士は勿論、全国民が一人残らず、刻々重大化する帝政ロシヤの脅威に対し、祖国防衛のため真に巳む得ざるに出た、乗るかそるか皇国の興廃を賭けた戦争であることをよく理解し、士気大いに振っていたのに反し、今回相続いて起った事変や戦争に対しては、その発生の原因や、爾後の経過から見て、出征兵士を含めて、泥沼のような長期戦に倦み果てた全国民は、到底日露戦争時の先輩達の如き真剣味を抱き得ず、従って出征兵士にもまた、真底から士気を作興するに足る深い要因がなかったものと断言するのは、過言でないと信ずる。

ジャーナリスト報ずるところの沖縄のコザ事件発生の誘因や、ベトナムにおけるソンミ村虐殺事件など、表面に現われたほんの氷山の一角に過ぎぬと思われる二、三の例証だけを勘案しても、米軍もまた正に前車の轍を踏み続けておる。これが、アメリカさんが、多額の金を出し、或は血まで流して、友邦を援助しながらも、なお到るところで憎まれるか、さなくも好かれない、重要な一要因であるのだ。