昭和十年代の陸軍と政治・第1章

第1章 広田内閣における陸軍の政治介入
二・二六事件の後、元老西園寺公望に首班として指名されたのは近衛文麿公爵でした。しかし近衛公は何かと理由をつけてこれを辞退。重臣達は困りますが、一木喜徳郎の推薦で広田弘毅に大命が降ります。
広田の組閣振りを注視していた陸軍は、その面々に不満を抱き、入閣予定であった寺内寿一をして、入閣を拒絶させます。このとき陸軍が忌避した人々は一般的に次の五名とされます。

  1. 牧野伸顕の女婿吉田茂
  2. 朝日新聞の下村宏
  3. 民政党の川崎卓吉
  4. 国体明徴の観念に疑義があるとされる小原直
  5. 軍需産業と繋がりの有る中島知久平
著者は、更にこれに永田秀次郎も加えた六名にクレームがついたとしています。

一方このとき陸軍省において協議に参画したのは、新大臣候補の寺内大将のほかに、現大臣の川島義之、次官の古荘幹郎、軍務局長の今井清、軍事課長の村上啓作、調査部長の山下奉文そして軍事課課員の武藤章高嶋辰彦といった人々でした。大臣、次官は勿論山下、村上の二人もいずれ事件の責任を問われる身であり、今井清も、皇道派ではありませんでしたが、この後一時的に兵本附となります(責任を問われたのか体が悪かったのかは不明)。当然、一連の流れを取り仕切ったのは、一番階級が下の武藤たちであったろうことは想像できます。特に武藤は、広田の組閣本部と直接の交渉にあたったため強い印象を与え、一連のクレームは、武藤一身から出たものであるというようなことすら言われます。武藤の持つ強大な才能もまた、人々の思い込みを補強します。しかし彼のブレーンであった矢次一夫は、むしろ武藤はより強硬な意見を持つ連中から突き上げられ、それを抑えるのに必死であったのだと書いています。

広田陣営は、陸軍の意向を汲みながらリストを作り上げましたが、最後の段階でまた陸軍が、政党人は一人にしろとクレームをつけてきました。それをうけて組閣参謀の藤沼庄平は、寺内に直接電話をかけて、「陸軍のせいで組閣が出来ないと明日新聞にぶちまける」と言いました。それを聞いた寺内は「ちょっと待ってくれ」と言い、「特使に持たせる一文に同意してくれるなら、明日の組閣に同意する」と答えました。特使としてやってきたのは武藤でした。その内容は随分陸軍本位なものでしたが、広田サイドは我慢してそれを聞き、何とか組閣にこぎつけました。

【感想】
個人的にへ〜と思ったのは、永田秀次郎の件でしょうか。著者はまずこの第1章で、軍部大臣現役武官制が復活していない状況にも関わらず、広田内閣が陸軍の反対で流産しかけたという点を指摘します。

第2章へ続く


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