昭和十年代の陸軍と政治・第2章

第2章 軍部大臣現役武官制の復活
軍部大臣現役武官制山本権兵衛内閣で廃止されました。その経過については、当時の陸相木越安綱の項などでも触れています。この官制改正を飲んだ陸軍は、その対策として陸軍省参謀本部教育総監部関係業務担任規定を改正しました。具体的に言えば、統帥命令に関する権限、編制動員業務に関する権限を参謀本部に移管し、陸相の専管事項であった高級人事も、三長官の合議制にするというもので、要するにそれらは陸軍大臣の権限を制限するという目的を持っていました。

広田内閣は、この軍部大臣現役武官制を復活させましたが、これを推し進めたのは、新たに陸軍次官に就任した梅津美治郎でした。梅津は二・二六事件において、断固討伐を訴えた数少ない師団長の一人でした。現役武官制復活の表向きの理由は、事件で追放された皇道派将軍の任用を防ぐということでした。これは、皇道派の将軍に深い信頼を寄せる近衛文麿の存在が念頭にあったかもしれません。しかし彼にはもう一つの目的がありました。それは、三長官に分散した人事行政の権限を、再び陸軍大臣に一元化するというものでした。つまりそれは三長官合議制の廃止を意味します。

ずっと後年、小磯国昭が大命を受けたとき、広田に呼び止められた話は、以前しました。この話はかなり広まっており、宇垣も戦後、聞いたそうです。

 私が最近聞いた話によれば、当時〔宇垣内閣流産事件の頃〕既に三長官会議の決定なるものは政府によって無効であった、との事。即ち小磯内閣成立の為の重臣会議を終えて・・・・・(後略)

文藝春秋臨時増刊 昭和メモ

ところが、宇垣は戦後知ったと言いますが、本書によれば、昭和11年5月18日の読売新聞にはっきりと、三長官会議は廃止されたという記事が載っているのだそうです。またこの頃、議会に於いて軍部大臣の選任方法について、植原悦次郎議員から質問を受けた広田は、

大命を拝しました本人は、例えば軍部に於きましては自分の適当と認める人を陛下に奏薦することが出来ると思うのであります

と答弁しています。これを聞いた椎原は、その後二度に渡って”そんなはずは無いだろう”というような趣旨の質問を繰り返したますが、広田は、軍部大臣は首相が選任できるという趣旨の答弁を繰り返し、最後には

私が申した通りに御信用願います

と言い切っています。議会には当然陸相とそのスタッフがいましたが、この広田首相の答弁が、その後問題になった形跡はないため、少なくとも寺内と広田の間では、三長官会議の廃止は合意されていたようです。後年広田が小磯にいったことは、満更の出鱈目でもなかったということです。

しかし梅津次官の人事一元化は、参謀本部の強い反対に阻まれ挫折します。また三長官会議もその後惰性的に開かれ、結局現役武官制が復活しただけと相成りました。

【感想】
広田弘毅A級戦犯として処刑されました。故に、広田の中から、それに相応しい罪状を搾り出そうとする人々がいます。そしてそういった人々が必ず挙げるのが、この軍部大臣現役武官制の復活です。しかし著者は、軍部大臣現役武官制が無くとも、軍部は既に内閣の死命を制する力を持っており、この官制の復活を過大視するはおかしいと主張します。
軍部大臣現役武官制の復活は、あくまで陸軍の内部事情に依る所が大きく、しかし外から見れば、軍部が政府に圧力を掛けているように見える。この構図は何かに似ていないでしょうか。そうです、やはりこの時期にあった支那駐屯軍の増強です。あれも、関東軍の北支への容喙を防ぐという陸軍の内部事情に依りました。しかしそういった事情は、国民政府には当然分らないわけで、自分たちへの圧力と受け取ったのは当然のことだったでしょう。
梅津という人は、大変統制を重んじる性格でした。彼は、統帥権という秘剣を持つ参謀本部の力を、少しでも削いでおきたかったのではないでしょうか。つまり、二・二六事件で統制派と皇道派の争いは一応解消しましたが、梅津・石原という二大巨頭の新たな争いが、このとき既に始まっていたというわけです。

第3章へ続く

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