武士の商法?

田村真作『愚かなる戦争』創元社 昭和25年

Kは参謀本部支那班長として、日華事変の導火線となった北支の特殊地帯設定を計画して、軍中央部で事変の火つけ役をやったメンバーの一人である。当時の彼はやっと少佐になったばかりであった。彼は事変は局地解決ぐらいですませるものと考えていた。事変が拡大してどうにもならなくなると、九段の偕行社にこもって北支開発、中支振興という二つの国策会社をでっちあげた。天文学的数字をやたらにならべたてた北支の地下資源が、さもしい日本人の目をくらます魔術の役を果した。
 こうして中国の侵略を理由づけた彼は、北京で呉佩孚工作に乗り出し、呉佩孚が死ぬと上海で陸軍部長に栄進した。いよいよ窮乏をつげて転戦する戦場の兵士の苦難をよそに、少将の彼は上海租界のしょうしゃな洋館を占拠し、徴発した高級自動車に乗り廻し、ふかふかしたイスにゆうぜんとかけて、かおりのよい葉巻をくゆらしていた。
アームチェヤー・ゼネラルとは、上海の日本人新聞記者達が彼のためにつけた尊号だった。終戦に際しては、軍用機を利用し、しこたま物資をつみこんで運ばせたといわれている。そして今は特務工作をやらせていた部下どもと貿易会社の重役におさまっている。

Kとは31期の川本芳太郎のことだろう。彼は支那事変初期、前述堀場一雄と激しく対立した一人だ。戦後は日本通商社長。彼の1期先輩で冀東政権の樹立に働いた専田盛寿の素行については以前触れた。まあこういう人もいたということ。
遠藤三郎*1『日中十五年戦争と私』日中書林 昭和49年

ただ不愉快であったのは同じ旧軍人でありながら復員局等に残った旧軍人が、依然高禄を喰みつつあまりにも一般軍人に対する思いやりの少なかったことでありました。彼等は占領米軍の命令で何か調査する際の如き私共旧軍人をしばしば復員局に呼び出しましたが、一日仕事を休んで出京するのに日当や旅費を支給するでもなく車の世話もしてくれません。随分勝手な奴と思いました。某日復員局次長Y元中将(私と陸士同期生)が私の貧乏生活を知り「よい金儲けの方法があるからW君(私と陸士同期、敗戦時阿南陸相の次官)を訪ねろ」と勧めてくれました。
私は早速W氏を訪ねました所、応接間には元陸軍省の貴賓室にあったと同様の豪奢な椅子が並んでいるのを瞥見し(私は応接間には通されず彼の居間で話しましたが)まず不快を感じました。彼の金儲けの方法というのは、名古屋の某金融会社(実質は高利貸し)に貴金具を現物出資しその評価額に対し毎月一割二分の配当を受けるものであり、彼は東欧の大使館附武官時代彼の妻女のため購ったダイヤモンドを出資しておるとの事でありました。もし私に何か貴金属があれば世話してやると申しました。
 私に貴金属などある筈はありません。戦争中家内は国民大衆と共に率先して鍋釜まで供出しております。ましてやダイヤモンドの如きはじめから持ってもおらず、かつダイヤモンドは戦争中精密工業の必要上民間からも半強制的に供出させております。その中には断ち難い思い出の篭る記念の品もあったでありましょう。政府はこれ等供出者を歌舞伎座に招待し、私が政府を代表して胸迫る思いで感謝の挨拶をした事もありました。しかるに「陸軍次官ともあろう者が」と憤激の念押え難く、席を蹴って帰った事を覚えております。これは決して私のやきもちばかりではありません。公憤であり又「乏しきを憂えず等しからざるを憂うる」気持もあった様に思います。

Yというのは恐らく終戦時軍務局長であった吉積正雄だろう。Wは若松只一*2。後に遠藤はその親中共的姿勢や軍備反対という所信により、26期の同期会から除名された。若松は二・二六事件では判士を務めたが、担当した将校の中に大蔵栄一*3末松太平*4の二大作家を含んでいたのが彼の不幸であった(佐々木二郎もか)。彼のそのときの態度は三人の著作に描かれている。佐々木が無罪となって出獄するとき、

「若松ロハ一に会ったときいってくれ。今度会ったら殴りつけてやるぞ」と、大蔵から頼まれた。
それから十年、敗戦後銀座の事務所で若松中将と会った。ちょっと考えたが、このような出世街道を苦もなく歩いた人には、そのままいった方がよいと思って、
「佐々木です。あのときはいろいろとお世話になりました」
「いやーどうも」
「大蔵が今度貴方に会ったら殴りつけると伝えてくれということでした」
「いやーあのときは裁判長の力ではどうすることもできなかった」
と、弱々しい声で答えた。戦犯で引っ張られた身には思い当たる節もあったのだろう。

末松もやはり戦後若松に会った。

二・二六事件のときお世話になりました末松です」
はじめはわけがわからず、とまどったふうだったが、すぐに察しがついたとみえ、一瞬その白皙の顔に血がのぼった。が、やがてもとの顔にかえると、
「あのときのことを思えば、君らに詫びなければならない。あのとき君らに憎しみを持っていた私は、君らを裁く資格はなかった。そのことを終戦後、立場をかえて豪州軍の戦犯に問われ法廷に立たされ、憎しみを持って裁かれたとき、あのときの君らのことが思い出されて、すまないことをしたと思った」
という意味の述懐をした。

遠藤に見せた顔とはまた別の顔である。
閑院宮春仁王*5も戦後商いの道に入った。やはりインチキ人物に騙されたりと色々苦労もされたようだ。離婚問題がマスコミに大きく取り上げられたりしたが、それも含めて『私の自叙伝』、『日本史上の秘密』という本を書かれた。その(元)宮様からも商売が下手と呆れられたのが小池龍二少将*6だ。現役時代から侍従武官向きと言われていた人物だけにさもありなんといったところか。彼は北部仏印進駐のとき西原監視団の一員であった。大井篤も認める良識的な人物であったが、佐藤賢了*7や藤原武といったバンカラを相手にするには大人し過ぎた。
ちなみに2chネラーが大好きな電通も戦後何人かの有名な軍人を入れている。例えば小沼治夫、塚本誠*8そして宮城事件の岩田正*9