按兵不動

支那事変初期、陸軍の中枢に不拡大派と一撃派がいたことはよく知られる(旗幟不鮮明の人物も多いが)。では不拡大派とは誰か?曰く石原莞爾、曰く多田駿、曰く柴山兼四郎*1、曰く橋本群*2、曰く戦争指導班。問題はこの戦争指導班である。
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/staf/organization/number.html
上は参謀本部の課の変遷を表にまとめたものである。参謀本部の課は陸軍省の課と違い数字で表すが*3、それぞれに担当内容からついた通称がある。二・二六事件と同時に第二課長の座に就いた石原莞爾は、自らの抱負を実現させるため、戦争指導課を新設し、これを第二課とした。従来第二課であった作戦課は第三課に移ると同時に、総務部に属していた第一課から編制動員の業務を奪った*4。石原は自ら戦争指導課長となり、やがて自分が第一部長に昇格すると、戦争指導課は河辺虎四郎*5に、作戦課は武藤章*6に任せた。ところがその後、支那事変への対応を巡り石原は満洲へ転任する。するとすぐに参謀本部の編制改正が行われ、作戦課が第二課に復し、作戦課から分離した編制動員課が総務部に戻らず第三課となった。そして石原の肝いりで作られた戦争指導課は班に格下げとなり、作戦課に属することとなった。
さて事変が起こると、この戦争指導班は、武藤章に代表される参謀本部内の一撃論者と鋭く対立した。ではその内容を、当時戦争指導班にいた堀場一雄*7の『支那事変戦争指導史』を使って具体的に見てみる。

盧溝橋事件後

作戦当局の見通し

武力行使の目的は抗日思想最も旺盛にして盧溝橋事件当面の責任者たる馮治安第三十七師に一撃を与ふるを先決とし、永定河以東平津地方一帯より第二十九軍を掃蕩するに存し、二十七日支那駐屯軍司令官に対し現任務の外平津地方の支那軍を贋懲して同地方主要各地の安定に任ずべき任務を附加せられ、航空作戦は地上協力を本旨として作戦地域を概ね保定濁流鎮の線以北に限定せり。特に平津地方は列国の利害錯綜し、且列国軍環視の中に在るに鑑み、軍は厳正なる軍紀と正当なる行動を内外に理解せしむると共に、努めて列国軍と協調を保持するを要すべき旨指示する所あり。又中南支に対しては海軍の警戒に止め実力を行使せざる主義にして、已むを得ざる場合に於ては青島上海附近に於て居留民を保護することゝせり。

戦争指導班の見通し

一旦武力行使に決定せる以上安易なる中途解決に期待することなく、十分強大なる兵力を使用して短期間に出師目的を達成すべく、対中央軍決戦兵力の即時動員を強調すると共に以上の如き出兵事情に鑑み、先づ第二十九軍撃破の機会に於て時局収拾を努力すべきものなりとし、中央軍との戦闘開始は指導上截然と一期を劃し、新に日支全面戦争の決意に於て之を律すべしとなせり。
何れにしても、山東に対する作戦は韓復渠の態度を考慮し、当初之を保留すべく、対支全面作戦に至らば須らく十分なる兵力を以て速に南京方面に重圧を加ふるを眼目とし、且南京政府の西方逃避を防止するの要あり。情勢若し持久に入らんとするに於ては、北部河北省及要すれば上海蘇州地区に緊縮態勢をとり、海面封鎖と共に武力外の手段をも併せ長期解決を図るの外なく、兪で初動中央軍に対する絶大なる決戦衝撃を重要視せり。

盧溝橋事件後の両者の考えである。二十九軍の中でも馮治安だけ叩けばそれで済むという楽観的な一撃論者に対し、戦争指導班は全面戦争まで想定して大兵力の投入を主張していた。このとき堀場は15個師団の動員、戦費55億円という案を立てた。しかし結果はご存知の通り、3個師団の動員という戦争指導班から見たら半端極まりない結果となった。これを認めてしまった石原は間もなく辞任のやむなきに至る。

上海へ拡大

作戦当局の案

海軍と協同して上海附近の敵を掃滅し、上海並其の北方地区の要線を占領し帝国臣民の保護に任ぜしむべく処置し、且我が正当なる行動を中外に理解せしめ、列国軍と協調を保持し上海租界には兵禍を及ぼさゞる如く努め、飛行機の対地攻撃に方りては目標の選定等に関し国際関係を顧慮すると共に、渉外事項に関しては任務達成上直接関係あるものゝ外は努めて外務官憲等の処理に委すべきを指示す。

戦争指導班の案

情勢上今や作戦目標は南京となし、日支全面問題を解決するの要ありとし、十月六日三原則より或る建設的解決方針を起案し、次で南京作戦を決定的ならしむるため英米軍需輸入ルート広東を衝くべきを提案す。

事変が上海に飛び火すると、当局は上海派遣軍(当初は2個師団)を編成して対応したが、戦争指導班は最低でも4個師団を基幹とした2個軍は必要であると考えていた。またこの際根本的解決のためにも南京を攻略する必要があると主張している。

南京へ

上海を抜くと、中央でも、前線からも南京への進撃を求める声が上がってきた*8。戦争指導班も相変わらず南京への進撃を主唱していた。しかし参謀本部の事実上の責任者である多田駿次長は、南京攻撃には反対であり、作戦地域を太湖以東に限定する考えであった。しかし下村の強い説得もあり、まず11月、作戦地域が無錫、湖州まで伸延され、12月、多田は遂に南京攻撃の許可を出す。上海派遣軍、第10軍が進撃を開始し、一気に南京に迫った。ところがこの段階で戦争指導班がおかしなことを言い出した。堀場はそれを按兵不動の策と呼ぶ。

現戦勢を利用し南京攻略の指導に於て講和交渉の機を成熟せしめ、一挙に之を事変解決に導かんとす。乃ち支那側の面子を保持し、蒋介石の南京撤退を防止して講和交渉の決意に導くためには、一挙に南京を攻略することなく、按兵不動の策を講ずると共に、更に之を適確ならしむるため速に広東方面の作戦を促進すべきを提案す。
(註)按兵不動の間戦争指導当局は、勅使を奉じ南京に飛行して双方の真意を交換し、日支和戦究極の決定に導かんとするものなり。

この案にかけた意気込みを堀場は次のように書いている。

抑々按兵不動南京乗込み案は、本事変が日支双方の誤解に基くこと多きに鑑み日本の真意を直接蒋介石に通達せんとするものにして、此の真意に関し肝胆相照さば蒋介石程の人物必ず氷解賛同して大乗的解決に到達し得べしと判断せり。是不幸なる継戦を防止する所以にてもあり、又万一談判決裂して交戦継続となる場合には、愈々挙国的戦争意志を一途に高揚せざるべからず。現在の国内態勢は之に程遠きものあり。予等一行南京街頭に晒首となる時、希くは挙国的戦争意志を確定することを得んか。

しかし勿論これは作戦当局の容れるところではなく、両者の間に激論が交わされた。

然るに作戦当局は、按兵不動の如き政戦両略運用の感覚を持合せず、戦線の停止は青島戦の前例もあり、近くは又塘沽協定前平津に於て停止のみならず撤収をも実行せる強き統帥の実例を挙げて説明せるも、之を理解するに至らず。西村少佐*9の如きは、予に対し戦勢を辨へず戦略を解せずと放言す。予は何れが戦略を解せざるか、余をして局に当らしめば必ず停止せしむべしと応酬せり。河辺作戦課長(武藤大佐転出、作戦、編成分離し作戦、戦争指導一課となる)の性格は、衆論を排して独歩断行するの処置には縁遠し。本件沙汰止みとなる。南京陥落旗行列、提灯行列、国民の歓喜を他所に、戦争指導当局独り楽しまず。旗行列は知らず、トラウトマン交渉亦明朗ならざるを。

こうして南京は陥落した。

攻略兵団は各々一部を城内に推進したるのみなるも、上海苦戦の反動、訓練不十分なる応召兵の介在等に依り、一部不軍紀の状態を現出し、支那軍敗残兵及不良民等の乱暴も加はり、南京攻略の結果は十年の恨を買ひ、日本軍の威信を傷つけたり。

トラウトマン工作打ち切り

この後、トラウトマン工作を巡り多田次長と政府が激しく対立した。明けて13年1月15日の歴史的な大本営連絡会議は、二度の休憩を挟む長丁場となった。明治天皇のお言葉まで引用して交渉の継続を訴えた多田であったが、多勢に無勢、当時人気絶頂の近衛内閣を潰すまでの決意には至らず、遂に交渉打ち切りに同意した。これを聞いた堀場はすかさず多田を説得し、閑院総長宮をして近衛より先に

  1. 蒋政権否認に関する本日の連絡会議決定は、時期尚早にして統帥部として不同意なり。
  2. 然れ共政府崩壊の内外に及ぼす影響を慮り政府に一任せり。

という内容の上奏を為すことを進言、多田も之を容れたが、結局近衛の上奏には間に合わず、早くも翌日にはあの有名な『爾後国民政府を対手とせず』という声明が出た。

戦争指導班の評価

以上であるが、戦争指導班を不拡大派、もっと有体に言えば良識派とする人々は、恐らくこのトラウトマン工作前後の彼らの活躍(ものにはならなかったが)に強い印象を受けているのではないだろうか。しかし見てきたように彼らは、そう単純な避戦派では無い。勿論彼らの主張は一種の反語であり、額面通りに受け取るべきではないが、それにしても同じ様に不拡大派とされた石原や多田とはちょっと毛色が違う。問題の按兵不動の策の実現性はどうだろうか。蒋介石が果たしてこのような城下の盟を受け入れただろうか。私は薄いと思う。そして交渉が決裂したならば、南京だけでなく広東まで攻略するという堀場の策は、南京の攻撃自体に否定的な多田より優れているとは思えない。

三人のその後

最後に主だった戦争指導班員のその後を見ておく。堀場一雄は34期の三羽烏といわれた逸材であり、確かに骨もある人物だが、これ以降はさほど目立ったところも無く、国軍の趨勢に影響を与えるほどの職にも就かずに終戦を迎えている。一時期総研にも務めていたが、総研の中では堀場も頭の固い方であったようだ。今田新太郎*10石原莞爾の弟子的存在*11だが、その辺が影響したのか、ずうっと南方で過ごした。東條暗殺計画の津野田知重が彼のことを尊敬していたそうだ。班長であった高嶋辰彦*12は陸士も陸大も首席で卒業した稀に見る秀才であった。トラウトマン工作の打ち切りを千秋の恨事とし悲憤の涙に咽んだ彼は、しかしその後『皇戦』などの本を出して聖戦の完遂を訴えたり、また極端な反英運動を展開したりした。伊藤佐又*13の英国領事館焼き討ち(未遂)は、彼と桜井徳太郎が*14が使嗾したという説もある。終戦時は東部軍参謀長。クーデターには賛同しなかったが強硬派ではあり、彼ほどの強硬派が賛同していない以上東部軍は安心であると思ったと書いていた人がいた*15。終始一貫して正しい選択をし続けた完璧超人のような軍人はいないということは、戦争指導班の蹉跌を見てもよく分かるし、別にそれでいいと思う。人間だもの。私はそういうのも含めて好き。