昭和動乱私史 上

 そこでこれもついでだが、日華事変が勃発し、多数の出征兵が動員されるのを見て、私はレーニンの演説を思い出し、近衛にマイクを通じて「愛情強姦論」*1のアジ演説をしたらどうかということを、真面目に風見と議論したことがあり、風見も一時は大いに興味を示したが、だんだん話し合っているうちに、これはレーニンだからよいとし、近衛ではナンセンスだということになってしまった。女房もちの多くの兵たちが、突然動員され出征させられるのだから、中国各地で性犯罪が頻発するであろうことは自明だったのだが、これを抑制したり取締ったりする方法はなかったわけだ。事実当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だが、お目にかけよう、といって、数冊の部厚い写真帖を賃してくれたので、ひらいて見たら、暴行の限りをつくした写真が一杯である。血刀を指し上げている一兵士の周囲に、数十箇の中国兵の首級が陳列されているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で切断した男根を口にさしこんだものだとか、今や正にエイッと中国兵を打首にしようとしているものだとか、筆紙につくしがたい残虐写真が満載されていた。私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午の国策研究会常任理事会にもちこんで、食事が済んだら大変な資料を見せる、といったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、食事前でもよいから、見せろ、といって聞かない。私が、食事がまずくなる、というのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、というので、では、といって写真帖を開いた。一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううんと唸ったきり、しばらくは一言を発するものもない。これらの写真は、小野の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇?を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。日本民族に潜在する残虐性が戦場という異常状態で爆発したものであるにせよ、かつて外国人によって書かれた「奉天二十年」に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたものと同じ日本人、しかも私共の父祖の時代であるだけに驚きは大きく、とくに下村海南は、日露役当時逓信省の局長として活躍した人物だけに、痛恨の情は、ひとしおであった。
 この問題で終戦後のこと、支那派遣軍総司令官だった岡村寧次大将が引揚げて来てからの話だが、戦時中における日本軍兵士が犯した残虐事件について、数多の資料をもっていること、日本人がかような残虐事件を犯すに至ったのは、過去の教育が悪かったのではないか、新生日本の将来を考えると、どうしても日本人の精神改造をはからねばならぬと思うが、研究してくれぬか、という相談があった。私ももちろん同感なのだが、しかしこの頃の私はいわゆる「追放中」の身分であり、どうすることも出来ぬ立場であった。

*1:どうしても強姦するときは愛情を持ってやれとレーニンが演説したとか。矢次はこれを山本懸蔵に聞いたそうだ。